歌舞伎独特の舞台機構。舞台中央の床を大きく円形に切って,その上に飾った装置をおいたまま回転させる。《歌舞妓事始》によると,正徳・享保期(1711-36)に江戸で活躍した狂言作者中村伝七は,いろいろの珍しい大道具を考案して,見物をおどろかせたが,その中に〈ぶん回し〉というのがあった。これは舞台の上にもう一つ四角い台をのせ二重舞台を作り,その下に車をつけ,回すときは道具方が3,4人出て,棍棒で押しやって回した。これは京坂でも採用され〈回り道具〉とよばれた。1758年(宝暦8)12月大坂角の芝居で,初世並木正三作の《三十石艠始(さんじつこくよふねのはじまり)》が上演されたとき,独楽(こま)まわしにヒントを得た作者自身の発案で,四角の二重舞台を舞台いっぱいの丸い盆にかえ,独楽のように心棒を付け,舞台の下を深く広く掘り下げて,その心棒を奈落へ通して回すようにした(《並木正三一代噺》)。心棒によって回転する軌道のブレを防ぎ,操作するさまを客席から隠した。この機構は単に舞台場面の転換を速めるためのみではない。見物の目前で表裏に飾った装置をぐるぐる回すことによって,二つの場面の異なった状況を交互に見せる,通称〈行って来い〉の演出を可能にした。その他《博多小女郎波枕》の元船のように舞台全体に飾った船を回すスペクタクルなどさまざまな演出を開発させる画期的な発明であった。その後まもなく,今日のように舞台の床板を丸く切り抜き,舞台そのものを奈落で回すようになった。この機構は,江戸の道具方老住屋重二郎によって1793年(寛政5)4月江戸中村座に移され,以後江戸三座でも行われるようになった。3世尾上菊五郎が《五十三駅》を上演したときに大道具の11世長谷川勘兵衛が,盆の中にもう一つ別の盆を切ることを考案し,内盆,外盆を反対の方向に回転させることもできる工夫をしたとされる(《戯曲年表》)。これを〈二重回し〉とも〈蛇の目回し〉ともいう。電力を利用するまでは,人力で回転させた。《河庄》《佐倉義民伝》の子別れ,《入谷》などのように〈半回し〉といって小角度に回し建物の横などを見せることもある。幕をおろして回すのを〈蔭回し〉,照明を落とさずに回すのを〈明転(あかてん)〉,暗くして回すのを〈暗転〉という。明治以降は,外国の劇場にも影響を与えている。
執筆者:権藤 芳一
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劇場の舞台機構の一つ。舞台の床を円形に切り(これを盆(ぼん)とよぶ)、心棒によって回転させる機構で、初めは舞台装置の転換をスムーズに行う目的から創案された。のちには、その機構の効果を作劇に活用し、同時に並行して別の場所で起こっている二つの事件を、舞台を何度も往復させる方法で示すことも行われた。原型となる素朴な「ぶん回(まわ)し」は、すでに正徳(しょうとく)・享保(きょうほう)年間(1711~36)のころ、中村伝七によってくふうされていたが、今日みられる形式のものは、1758年(宝暦8)大坂の狂言作者初世並木正三(しょうざ)が『三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』でくふうして使ったのに始まるといわれている。そのときは平床の上に重ねた上舞台だけを回す「上回し」だったが、のちに床板を切って舞台と同一平面で回転させる形式に発達した。近代に入って、すべて電動式になったが、それ以前は奈落(ならく)で人が手で動かした。その古風な様式が香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町の旧金毘羅(こんぴら)大芝居(通称金丸(かなまる)座)にそのまま残っており、実際の使用も可能である。
[服部幸雄]
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…歌舞伎から出た語であるが,現代では一般の演劇から映画・テレビなどの用語にもなっている。ただし,一般演劇では〈舞台装置〉,映画・テレビなどでは〈セット〉という語の同義語として使われるが,歌舞伎本来の大道具とはもっと範囲が広く,〈引幕〉〈回り舞台〉〈セリ〉など劇場常備の舞台機構も含まれ,道具の作製と飾りつけや機構の操作を受けもつ職業を〈大道具師〉〈大道具方〉または〈道具方〉と呼んでいる。 初期の歌舞伎は能舞台をそのまま模したような舞台で,演目も単純な一幕物ばかりだったから,大道具も簡単であったが,脚本が進歩して多幕物が発達し,演出も複雑になるにともなって,それまで舞台装置に類するものを担当していた大工職が独立し,専門の大道具師が生まれた。…
…とりわけこの時期には舞台機構の面が発達した。セリ上げや回り舞台がくふうされ,変化に富んだ作劇や演出が可能になった。この面では,上方の名作者初世並木正三の功績が大きい。…
…
[独自の舞台機構の開発]
宝暦年間(1751‐64)には,舞台機構の上での改新的な数々の技術改革が実施された。セリ上げ(1753),狂言作者並木正三による回り舞台(1758)の発明,スッポン(1759),がんどう返し(1761),次の明和期には引割り,さらに1789年(寛政1)には田楽返しが創案されて,歌舞伎の演出上多彩な展開を可能とした。すでに歌舞伎劇場の舞台面では,1761年には舞台上の破風屋根を除去したし,目付柱・脇柱も撤去して独自の展開をすすめる条件が整えられた。…
…江戸時代,官許以外の劇場は,はじめ,あちこちに散在したものが,だんだん制約を受け寺社の境内に限られるようになったので宮地芝居と呼ばれ,またその場合興行日数を100日に限って許されたので百日芝居ともいった。これらの小芝居は興行地,日数のみならず,櫓は許されず,回り舞台や引幕も許されなかった。引幕が使えないので緞帳(どんちよう)を使っていたために緞帳芝居の称もある。…
…また,どんでん返しに次ぐどんでん返しで,観客の意表を衝く趣向にみちていて,江戸中期の芝居の野放図な活力がよく伝わる作品。作者の並木正三は,この作品で回り舞台を発明したと伝えられている。しかし現在では,回り舞台の原形はすでに地芝居やその他の芸能に存在していて,それを正三が,この作品で初めて歌舞伎の大劇場へ導入したという説が有力。…
… 享保から元文・延享・宝暦・明和にいたる18世紀前半から中葉にかけて,舞台機構や設備の上で創意にみちた新しい考案が,次々に実施されていく。1753年(宝暦3)12月大坂の大西芝居で〈セリ上げ〉,5年あとの58年2月には狂言作者並木正三によって同じく道頓堀角の芝居で,大劇場では画期的な〈回り舞台〉が創始された。さらに59年4月道頓堀の大西芝居で〈スッポン〉が,61年12月大坂の中の芝居で〈がんどう返し〉が,さらに66年(明和3)に大西芝居で〈引割〉が創案された。…
※「回り舞台」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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