中陣村(読み)なかじんむら

日本歴史地名大系 「中陣村」の解説

中陣村
なかじんむら

[現在地名]龍野市揖保町中臣いぼちようなかじん

山下やました村の南に位置し、揖西いつさい郡に属する。東は揖東いつとう下沖しもおき村。村の中心部を揖保川の旧河道に沿って浦上うらかみ井が蛇行しながら流れる。「和名抄」記載の揖保郡中臣なかとみ郷の遺称地とされる。文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)には浦上井の末端付近に中陣村とみえる。慶長八年(一六〇三)池田輝政家臣地方知行状(鳥取県立博物館蔵)によると、加藤小十郎は当村の二二二石余など都合五〇〇石を与えられている。慶長国絵図には中陳村とみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永元年(一六二四)当村から藤右衛門捌が、同二年には佐右衛門(作右衛門)捌・新兵衛捌が、同四年には善大夫捌が分立したという(「龍野藩領分明細帳」八瀬家文書)。同一三年の龍野領村々高辻帳(同文書)では高五九三石余、ほかに当村出屋敷今熊いまくまと出屋敷三ヵ所が記される。同一六年さらに孫大夫捌が分立した(前掲明細帳)正保郷帳では田方五一八石余・畑方七五石余、ほかに出屋敷村が四ヵ村記される。天和元年(一六八一)には伊兵衛捌が分立している(前掲明細帳)

中陣村
なかじんむら

[現在地名]黒部市中陣

十二貫野じゆうにかんの台地布施ふせ川の間に位置し、東は朴谷ほおのきだに村、西は山田やまだ村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高二一七石余、田方一四町三反余・畑方一反余、新田高七七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一七石、免五ツ八歩、小物成は山役二二匁・鮭役三五匁三分・鮎川役七匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の草高・免ともに変わらず(「高免帳」杉木家文書)。同一三年山地が十二貫野仕立開となったので、山役二二匁のうち一〇匁が退転(「御触留帳」伊東家文書)。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では家数二七、うち頭振三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報