丹波郷
たにはごう
「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠く。「丹後国風土記」逸文に「丹波の里の哭木の村に至り」とみえる。これが風土記の文章そのままとすると郷里制施行以前のものということになる。
「哭木村」は現中郡峰山町字内記にあてられ、「延喜式」神名帳の「名木神社」に比定される名木神社があり、九基の円墳がある。内記に接して丹波(現在はたんばと読む)の地名が残り、弥生式土器多数を出土した扇谷遺跡のほか古墳一〇基(一基は前方後円墳)がある。また隣接する杉谷には丹後最大の円墳(カジヤ古墳)をはじめ西谷山古墳群(七基)・杉谷山古墳群(二八基)があり、矢田には五基の円墳が確認されている。丹波には多久神社、矢田には矢田神社といずれも式内社とされる社がある。
これらは当地辺りが古くから開発されていたことを示しており、丹後国割置(和銅六年)以前は丹波国の一中心地であり、丹後国丹波郷となってからは郡家の所在地であったと推察できる。
丹波郷
たにはごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は「国名丹波は、古訓多尓波にてタニハ一転せばタニマ、此には更にタジマと訛りたるに非ずや」として、現白河市田島に擬している。「日本地理志料」は現西白河郡大信村下小屋と現岩瀬郡天栄村大里との境にある丹波楯山(五六二メートル)を遺称地とし、現大信村の上新城・中新城・下新城・町屋・増見および現西白河郡泉崎村踏瀬、現同郡矢吹町大和久・中畑・須乗・三城目の地とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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