デジタル大辞泉
「里村紹巴」の意味・読み・例文・類語
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さとむら‐じょうは【里村紹巴】
- 室町・安土桃山時代の連歌師。本姓松村。周桂、昌休に師事。昌休死後、里村姓を名乗り、連歌界の第一人者として活躍。多くの千句百韻がある。主著「連歌至宝抄」「源氏二十巻抄」。大永四~慶長七年(一五二四‐一六〇二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
里村紹巴
没年:慶長7.4.12(1602.6.2)
生年:大永5(1525)
安土桃山時代の連歌師。号,臨江斎。奈良興福寺一乗院の小者松井昌祐の子と伝えられる。里村姓は師里村昌休の姓による。連歌を周桂,昌休に,和歌,古典を三条西公条に学んだ。永禄7(1564)年谷宗養が没して連歌界の第一人者となり,近衛稙家,三好長慶,細川幽斎らと交友を深める一方,明智光秀や豊臣秀吉の信任を得た。光秀との『愛宕百韻』,秀吉毛利攻めの戦勝祈願『羽柴千句』などが有名。文禄4(1595)年,豊臣秀次の事件に連座,のちに許されたが失意のうちに没した。剛直にして細心,したたかに乱世を生き抜いた人物で,弟子の松永貞徳は「正直正路」「力も心も大剛の人」と評し,辻切りの刀を奪い取って織田信長にほめられた逸話を記している。連歌論に『至宝抄』『連歌教訓』,紀行に『紹巴富士見道記』などがあり,一座した連歌はすこぶる多い。<参考文献>小高敏郎『ある連歌師の生涯』,奥田勲『連歌師―その行動と文学』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
里村紹巴
さとむらじょうは
[生]大永4(1524).奈良
[没]慶長7(1602).4.12. 奈良
安土桃山時代の連歌作者。奈良一乗院の御小者松井昌祐の子。周桂,昌休に師事。本姓は松村氏。昌休より家を譲られて里村を姓とした。その後は独力で修練。精力的な精進と,生来の豪胆磊落 (らいらく) なふてぶてしさと,包容力のある親分肌の性格とで,安土桃山時代の連歌壇の大立て者となった。天正 10 (1582) 年明智光秀の反逆に先立ち光秀と連歌に一座して豊臣秀吉の吟味を受け,秀次の事件にも嫌疑を受け一時三井寺に蟄居を命じられた。古典注釈書『二十巻抄』『百人一首紹巴抄』,連歌作法書『出葉 (てには) 口伝抄』 (91) ,『連歌至宝抄』 (1627) ,式目去嫌書『式目秘抄』 (1587) ,歌詞注釈書『匠材集』 (1626) などの編著がある。 (→里村家 )
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里村紹巴 さとむら-じょうは
1525-1602 戦国-織豊時代の連歌師。
大永(たいえい)5年生まれ。里村北家の祖。里村昌休(しょうきゅう)らにまなび,連歌界の中心人物となった。昌休の没後,遺児昌叱(しょうしつ)を養育。豊臣秀吉,明智光秀ら武将や公家,高僧と交流し,のち豊臣秀次の事件に連座する。法眼。慶長7年4月12日死去。78歳。大和(奈良県)出身。本姓は松井。号は臨江斎,半醒子。著作に「連歌至宝抄」「源氏物語抄」など。
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里村紹巴
さとむらじょうは
1525〜1602
安土桃山時代の連歌師
本姓は松井。奈良の人。織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの寵をうけた。門弟に松永貞徳がいる。著書に『連歌至宝抄』『富士見道記』など。子孫は代々連歌師として江戸幕府に仕えた。
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里村紹巴
戦国時代にもっとも優れていたと言われている連歌[れんが]師です。多くの公家や大名と交流がありました。
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世界大百科事典(旧版)内の里村紹巴の言及
【紹巴】より
…室町・安土桃山時代の連歌師。本姓松井氏。臨江斎と号す。のちに里村北家の祖とされる。奈良の生れ。出自には不明な点も多い。周桂,昌休に師事し,連歌界第一の宗匠として活躍し,多くの百韻,千句をのこした。連歌論書に《連歌至宝抄》がある。また,三条西公条(きんえだ)らに二条派の歌学を学び,《源氏二十巻抄》《百人一首紹巴抄》《狭衣下紐(さごろもしたひも)》などの注釈書を著している。【小高 道子】…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」