日本歴史地名大系 「主殿保」の解説 主殿保とのもほ 兵庫県:篠山市旧丹南町地区当野村主殿保武庫(むこ)川沿いの細長い谷間(旧古市村周辺)に開けた保。現在の当野(とうの)を中心に真南条(まなんじよう)・栗栖野(くりすの)などの一帯に比定できる。元来は主殿寮領であったと推定されるが、正平六年(一三五一)一一月の仁和寺法金剛院領丹波国主殿保事書(仁和寺文書)に「当寺者、為待賢門院御願、朝廷奉祈之伽藍也、当保者為仏聖灯油僧食料所、重色異于他之地也」とあるように、大治五年(一一三〇)鳥羽天皇中宮待賢門院璋子が京都仁和寺内に建立した法金剛(ほうこんごう)院の所領であり、仁和寺が領家となっていた。天文二年(一五三三)一一月八日の法金剛院領并末寺目録案(法金剛院文書)には丹波国として三箇南(さんかみなみ)庄・三箇北庄・安行(あんぎよう)庄とともに「主殿保田卅二町五段廿五代 畠十五町六段卅五代」とある。これは「仁和寺宮之御旧記抄出之」とあるように、必ずしも戦国期の支配の実体を示すものではないが、庄の規模を知ることはできる。嘉禎四年(一二三八)三月一二日尼光蓮申状案(歴代秘録紙背文書)によれば、近接する犬甘(いぬかい)・油井(あぶらい)と主殿(主殿庄とも)の三ヵ所は元来光蓮の亡夫酒井兵衛太郎入道明政の所領であり、明政死後三保を押領されたため関東へ行き、ようやく安堵の下文を得て所領を回復した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by