日本歴史地名大系 「久泉村」の解説 久泉村ひさいずみむら 富山県:砺波市久泉村[現在地名]砺波市久泉祖泉(そいずみ)村の東にあり、北と東は柳瀬(やなぜ)村。集落はやや密な散村状を呈する。村名の由来は、東部の五反坪(ごたんつぼ)という辺りは沢地で、夏の炎天にも清水が湧いていたからという。元和五年(一六一九)の家高新帳に久泉とあり、太田組に属し役家数七。正保郷帳では高四八一石余、田方二九町余・畑方三町一反。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四九二石であったが、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇二石・免四ツ五歩、小物成は鱒役三匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。 久泉村ひさいずみむら 福岡県:八女郡広川町久泉村[現在地名]広川町久泉吉常(よしつね)村の西に位置し、長延(ながのぶ)川が流れる。山中(さんちゆう)街道が通る。天正一二年(一五八四)三月一三日の稲員安守知行坪付(歴世古文書/大日本史料一一―一二)によれば、稲員安守は「五町 久泉」など累代の知行地計七〇町の安堵を大友義統に求めている。文禄二年(一五九三)三月一八日の高良山知行所指出(稲員家文書)にもと稲員安守領の当地五町がみえる。本高一五七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二四二石・役高五五一石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by