久留米城跡
くるめじようあと
筑後川を背後に築かれた平山城。篠山城とも。本丸跡全域が久留米城跡として県指定史跡。近世小早川氏・田中氏のあと有馬氏が入り、久留米領経営の政庁となった。
〔近世以前の久留米城と有馬氏入城〕
永正年間(一五〇四―二一)在地土豪が築城、笹原城と称したという。近世以前の城郭は、のち本丸となった小丘を筑後川と湿地帯が取囲んだ天然の要害であったとされる(久留米市史)。城地は近世久留米城の蜜柑丸の地であったともいう(筑後将士軍談)。天文年間(一五三二―五五)に再興され、天正(一五七三―九二)初期に高良山座主良寛の弟麟圭が居城したとされる。天正一三年筑後における大友方と龍造寺方の合戦では大友方の高良山に対する龍造寺方の拠点として利用されたという(普聞集)。同一五年の豊臣秀吉による九州国割後に小早川秀包(毛利秀包)が入城。所領は御井郡・御原郡・山本郡内という(筑後封植録・筑後国史)。同年の肥後国人一揆に際しては肥後に出張した秀包に代わり小早川隆景が在城した(天正一五年九月八日「豊臣秀吉直書」小早川文書)。同一九年末肥前長崎より上洛の途上にあったイエズス会巡察師ヴァリニャーノは求めに応じて当城に立寄り、城主秀包とその妻のマセンシア(大友宗麟の女)に対面した(フロイス「日本史」)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に伴う騒乱のなか、秀包家臣の守る当城は黒田孝高の軍勢により開城した(寛政重修諸家譜)。秀包は西軍に属したため領知を失い、合戦後に三河国岡崎(現愛知県岡崎市)から田中吉政が筑後一国三二万石(三〇万石余とも、三三万石余とも)の大名として柳川城に入り、久留米城に次男則政を置いた。久留米城は筑後五郡の蔵入米を収納するなど、北筑後の支配の拠点とされた(同七年「台所入之掟」中川文書)。慶長一九年則政が死去、家老坂本和泉が城代として当城を預かり、元和の一国一城令で廃城。元和六年(一六二〇)二代田中忠政が江戸で病死、嗣子がないため断絶、丹波福知山(現京都府福知山市)から有馬豊氏が二一万石を与えられ、翌七年久留米城に入った。これ以降当城に有馬家一一代が居城、幕末に至る。
〔城郭の修築〕
小早川秀包の時代、本丸は東面し、二の丸に大坂城から移された書院(大坂書院)があり、長谷川等伯の絵が描かれていたという。有馬豊氏は元和七年三月久留米に入ったが、当時久留米城は廃城であったため竹屋新左衛門宅を宿所にしたという(「品々集書」有馬泰生家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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