大坂町奉行(読み)オオサカマチブギョウ

デジタル大辞泉 「大坂町奉行」の意味・読み・例文・類語

おおさか‐まちぶぎょう〔おほさかまちブギヤウ〕【大坂町奉行】

江戸幕府職名大坂に在勤し、大坂の市政と、摂津播磨はりま河内かわち和泉4か国の幕府直轄地の訴訟を担当した。東西各一人の奉行が1か月交替で執務。→町奉行

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精選版 日本国語大辞典 「大坂町奉行」の意味・読み・例文・類語

おおさか‐まちぶぎょうおほさかまちブギャウ【大坂町奉行】

  1. 〘 名詞 〙 江戸幕府の職名。老中支配。大坂に在勤し、大坂の市政一般をつかさどるかたわら、摂津、河内、和泉、播磨四か国の幕府直轄地の訴訟なども担当した。東西二人の奉行がおかれ、一か月交替で執務し、輩下に与力同心がいた。〔禁令考‐前集・第四・巻三二・元祿九年(1696)二月

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百科事典マイペディア 「大坂町奉行」の意味・わかりやすい解説

大坂町奉行【おおさかまちぶぎょう】

江戸幕府の遠国(おんごく)奉行の一つ。1619年任命された大坂郡代に始まる。江戸中期以降は老中の下で大坂3郷と摂津国河内国を支配(一時は堺町奉行を合併し和泉国を支配),定員2名。京橋口門外の東西にあり(西町奉行所は1724年から本町に移転),隔月月番で政務を見た。一般職務のほかに遠国廻米,糸割符(いとわっぷ)業務なども担当した。ほぼ役高1500石・役料現米600石。
→関連項目大阪市史長崎犯科帳妙知焼

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改訂新版 世界大百科事典 「大坂町奉行」の意味・わかりやすい解説

大坂町奉行 (おおさかまちぶぎょう)

江戸幕府の遠国奉行の一つ。1619年(元和5)8月22日,久貝正俊,島田直時が高3000石,与力各25騎をもって大坂郡代に任命され,大坂三郷および摂津,河内を支配したことに始まる(《梅津政景日記》。なお水野守信の初代就任説もあるが誤り)。近世中期以後は老中支配で定員2名(1696-1702年(元禄9-15)は堺町奉行を吸収合併して定員3名となり和泉を支配したこともある),与力各30騎,同心各50名,役高1500石,役料現米600石が普通であった。奉行所は京橋口門外の東西にあり隔月月番で政務を見たが,1724年(享保9)の大火(妙知焼)後,西町奉行所だけは本町東詰へ移転した。一般職務のほかに遠国廻米,糸割符等広範な業務を担当し,1722年よりは摂津,河内,和泉,播磨の幕領の年貢徴収と地方公事等も管轄した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大坂町奉行」の意味・わかりやすい解説

大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう

大坂に置かれた江戸幕府遠国(おんごく)奉行の一つ。老中の支配下にあって、原則として知行高(ちぎょうだか)1000石以上3000石以下の旗本のなかから選任された。任期は定まらず、下僚として与力(よりき)30騎、同心50人がいた。1619年(元和5)久貝正俊(くがいまさとし)、嶋田直時(しまだなおとき)が補されたのに始まるが、久貝、嶋田と水野守信(もりのぶ)の3人補任(ぶにん)とする説もある。定員は東西2名であるが、一時的に元禄(げんろく)年間(1688~1704)に1名増して、堺(さかい)奉行を兼任させたり、幕末に町奉行並(なみ)を増置するなどの変更があった。奉行所は京橋口門外に並設されたが、1724年(享保9)の大火後、西町奉行所のみ本町橋東詰に移った。職務は大坂三郷(さんごう)、兵庫・西宮(にしのみや)(1769年以降)の一般民政のほか、廻米(かいまい)、消防、警察、糸割符(いとわっぷ)、株仲間、河川、寺社、出版などをも管掌した。その管轄範囲も広く摂津、河内(かわち)に及び、1722年(享保7)以降は、摂・河・泉・播4か国の水論(すいろん)・山論などの民事裁判にもあたった。

[藪田 貫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大坂町奉行」の意味・わかりやすい解説

大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう

江戸幕府の職名。大坂の市政,裁判,警察を司り,のち,租税徴収も行なった。京橋口内外に奉行所があって東西に分れ,定員2名が月ごとに交代して勤務した。 1000石以上 3000石以下の旗本から選ばれ,元和5 (1619) 年久貝正俊,島田直時が初代である。老中支配で,与力 30騎,同心 50人が従属した。元禄9 (96) 年には1名を増員して堺奉行をも兼ねたが,同 15年には,もとの2名に戻った。また享保7 (1722) 年以後,摂津,河内,和泉,播磨の幕府領の徴税,裁判もした。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大坂町奉行」の解説

大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ。大坂の市政一般のほか,町続きの地方(じかた),川方,寺社方,廻米,糸割符などを管掌。1722年(享保7)以後は,摂津・河内・和泉・播磨4カ国の幕領の租税徴収および公事裁判も担当。1619年(元和5)初設。定員2人(一時3人)。任期不定。持高1000石以上3000石以下の者から選任されたが,実際は最高4500石から最低町奉行並30俵まで就任。役高1500石,役料現米600石。老中支配,芙蓉間(ふようのま)席。従五位下。下僚として与力30騎,同心50人。東西の奉行所で,各町奉行が月番と非番にわかれ,隔月交代で政務をみた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大坂町奉行」の解説

大坂町奉行
おおさかまちぶぎょう

江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ
1619年に設置。老中の支配下にあり,東西両奉行所が月番制で,旗本から選任した。大坂の行政・司法を管掌し,江戸中期以後は摂津・河内・和泉・播磨の幕府領の租税徴収や公事裁判もつかさどった。

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世界大百科事典(旧版)内の大坂町奉行の言及

【河内国】より

…河内の残り全域は小堀政一(遠州),北見五郎左衛門などの幕府国奉行が管轄した。19年松平忠明が大和郡山に転封となり,大坂に国奉行でもある大坂町奉行が置かれて摂津・河内両国はその管轄となり,以後この体制は明治維新まで変わらなかった。 延宝年間(1673‐81)の河内の幕府領(代官支配地域)は約9万2000石(34.4%),私領(大名・旗本領)は約17万4500石(65.2%),寺社領は約1000石(0.4%)で,豊臣氏時代に比べ直轄領はほぼ半分に減り,私領が多くなっている。…

【出入筋】より

…江戸時代には,当事者の人別(にんべつ)地を支配する領主がそれぞれ裁判権を有したが,他領・他支配に関連する訴訟,すなわち〈支配違(しはいちがい)え懸る出入〉や,武家を相手取る場合などは,原則として幕府評定所の管轄となる。ただし,債権法,取引法と密接にかかわる金公事(金銀出入)については大坂町奉行所に広範な裁判管轄権が与えられており,江戸とは異なる債権保護的性格の強い法制を発達させたことが注目される。出入筋はまた〈目安懸(めやすがかり)〉ともいい,私人ないしそれに準ずる団体が訴状(目安)を裁判所に提出することによって開始されるもので,法廷(白洲(しらす))で原告(訴訟人,願人),被告(相手方)を対決させて判決を与える手続である。…

【長崎犯科帳】より

…江戸時代の長崎奉行所の判決記録。長崎奉行は直轄地長崎および周辺の長崎代官管地の事件一般のほか,西国の宗門・抜荷関係については大坂町奉行と分掌した。遠島以下は奉行限りであるが,死刑や判例の乏しい事件は幕府へ〈御仕置伺〉のうえで判決を下した。…

【妙知焼】より

…焼死者数はあるいは7000余人といい,または2060余人,1182人,293人など史料によって異なった数が記録されている。鎮火の後,東西の大坂町奉行は,両町奉行所を一時東本願寺難波別院に移し,次いで西町奉行所を本町橋東詰の塩噌屋敷焼跡に新築移転。市中の取締りを厳にするとともに,城米1万石を1石当り銀40目で罹災窮民に払い下げたほか,橋梁の架設,家屋の新築など市街の復旧,窮民救済に努めた。…

※「大坂町奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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