久米南条郡(読み)くめなんじようぐん

日本歴史地名大系 「久米南条郡」の解説

久米南条郡
くめなんじようぐん

久米郡が東西に分割された東半分の郡。美作国のほぼ中央部南端に位置し、西は久米北条郡、北は西西条さいさいじよう郡・西北条さいほくじよう郡・東南条とうなんじよう郡、東は勝南しようなん郡、南は備前国赤坂あかさか郡・同津高つだか郡に接する。郡域は現在の久米郡柵原やなはら町の一部、同郡久米南くめなん町全域、同郡中央ちゆうおう町の約半分、津山市の南西部、御津みつ建部たけべ町の一部にあたる。成立期および成立の事情は不明だが、慶長七年(一六〇二)九月の小早川秀詮発給の知行目録に久米南条郡と記すと伝える(美作略史)呼称としては久米郡南分・久米南郡も使用されたようである。寛文元年(一六六一)津山藩は久米南条郡を久米南郡と改称、天和二年(一六八二)には幕命によって美作国一〇郡制を布いたため、公式には南北の称を廃したが実際には南分として使用された。森氏廃絶後の元禄一一年(一六九八)には寛文以前の郡制に復し、久米南条郡と称され(同書)、明治三三年(一九〇〇)久米北条郡と合併して久米郡が成立するまで続く。

吉井川支流の佐良さら川と旭川支流の誕生寺たんじようじ川の流域に南北に、また吉井川右岸にわずかに平坦地が開けるほかは高原状の山地である。慶長八年津山藩森氏領となり、正保郷帳によれば五四ヵ村、毛付高二万二七石余、うち拝領高一万七千三〇四石余(田方一万三石余・畠方七千三〇一石)、新田畠二千七二三石、ほかに荒川成九九二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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