久米北条郡(読み)くめほくじようぐん

日本歴史地名大系 「久米北条郡」の解説

久米北条郡
くめほくじようぐん

久米郡が東西に分割された西半分の郡。美作国のほぼ中央部南端に位置し、東は久米南条郡、北は西西条さいさいじよう郡、西は大庭おおば郡、南は真島ましま郡・備前国津高つだか郡。郡域は現在の久米郡中央ちゆうおう町の約半分、同郡久米町全域、同郡あさひ町の大半、御津みつ建部たけべ町の一部にあたる。成立期および成立の事情は不明であるが、永禄八年(一五六五)一一月二八日の村上左衛門尉への毛利元就宛行状(美作古簡集)に「久米北郡」がみえ、戦国時代には成立していたと思われる。慶長七年(一六〇二)九月の小早川秀詮の知行目録には久米北条郡と記すと伝える(美作略史)呼称としては久米郡北分・久米北郡も使用されたようである。寛文元年(一六六一)津山藩は久米北条郡を久米北郡と改称、天和二年(一六八二)には幕命によって美作国一〇郡制を布いたため、公式には南北の称を廃したが実際には北分として使用された。津山藩主森氏廃絶後の元禄一一年(一六九八)、寛文以前の郡制に復し、久米北条郡と称され(同書)、明治三三年(一九〇〇)久米南条郡と合併して久米郡が成立するまで続く。

北辺の久米川倭文しとり川下流域に平坦地が開けるほかは、南・西辺は吉備高原の縁辺に属し、高原部や谷間集落が散在する。西辺から南辺にかけて旭川左岸に沿う。慶長八年津山藩森氏領となり、正保郷帳によれば三三ヵ村、毛付高二万五千五八九石余、うち拝領高二万二千一一〇石余(田方一万四千八八〇石余・畠方七千二二九石余)、新田畠三千四七九石余、ほかに荒川成一千八七八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報