二屋村(読み)ふたつやむら

日本歴史地名大系 「二屋村」の解説

二屋村
ふたつやむら

[現在地名]田舎館村豊蒔とよまき 北前田きたまえた

ひら川と浅瀬石あせいし川の合流点に近く、南は豊蒔とよまき村、東は大根子おおねこ村、北の浅瀬石川対岸は藤越ふじこし(現藤崎町)に接する。貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以降の新田として高一七四・四石とある。貞享四年の検地帳に村高七六・七一四石、うち田方六町四畝一四歩、六九・六六八石、畑方一町二反一畝三歩、七・〇四六石、屋敷三軒とある。元禄三年(一六九〇)には田舎館組に属し、村位は上(平山日記)


二屋村
ふたつやむら

[現在地名]丸岡町東二ツ屋ひがしふたつや

丸岡城下の南東方、上久米田かみくめだ村の南に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では粟田島あわたじま村に含まれ、正保郷帳から村名がみえる。同帳によれば田方三九石余・畠方二四石余。正保二年(一六四五)松岡藩領、享保六年(一七二一)再び福井藩領となる。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると高六一・三一三石、田七反余・畑八反であった。年貢率は七分五厘で諸役銀として御鷹餌代銀・川除銀・川役銀・簗運上銀・舟役銀・大谷山手銀があった。


二屋村
ふたつやむら

[現在地名]加古川市野口町二屋のぐちちようふたや

坂井さかい村の北に位置する。慶長一二年(一六〇七)森次右衛門は二屋村のうち高六八石余の知行を認められている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)慶長国絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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