丸岡城下(読み)まるおかじようか

日本歴史地名大系 「丸岡城下」の解説

丸岡城下
まるおかじようか

[現在地名]丸岡かすみおか八幡はちまん町・たに町・富田とみた町・石城戸いしきど町・たつみ町・かすみ町・松川まつかわ町・上田うえだ町・ほん町・あら町・西瓜屋にしうりや乾下田いぬいしもだ

坂井平野の東方、標高一七メートルの孤立丘陵上に、天正四年(一五七六)柴田勝家の甥勝豊によって築城された丸岡城を中心として形成された城下町。この地は西方約四キロを南北に北陸街道が走るため、築城にあたって北陸街道と接続する道として北西金津かなづ(現金津町)に通ずる金津道、南西方の南横地みなみよこじ村で北陸街道と合流する福井道を新しく開いたと考えられ、道路も直線状をなす。このほか、南東方は鳴鹿なるか道を経、九頭竜くずりゆう川を渡って永平寺(現吉田郡永平寺町)勝山(現勝山市)方面に至る。

〔城主〕

柴田勝豊は天正三年、豊原とよはらに築城したが、翌年この地に移城し、これに従って豊原からは円福えんぷく院・西得さいとく寺・東得とうとく寺などの寺坊や民家が移され、このほか近郷近在からも領民が集まって城下町が起こった。以後、安井氏・青山氏を経て結城秀康の入国により、その重臣今村氏が城主となり、二万五千石を領した。しかし今村氏は藩内家臣団の権力抗争に敗れて失脚、慶長一八年(一六一三)本多氏が城主となる。福井藩二代藩主松平忠直の配流による所領減石・支藩独立の際、寛永元年(一六二四)本多氏は四万六千石余の丸岡藩主となった。元禄八年(一六九五)御家騒動によって本多氏は除封、越後糸魚川いといがわ(現新潟県糸魚川市)より有馬氏が五万石で入封した。丸岡藩五万石は丸岡城を中心に坂井郡に集中し、吉田郡一村・南条郡二村に及んだ。なかでも滝谷たきだに出村(現三国町)は福井藩領の三国みくに(現三国町)の北に連続する海港で、竹田たけだ川を通じて丸岡と結ばれていた。

〔城下の町割〕

本多氏時代にはすでに城下町の基礎が出来上り、慶長一八年の丸岡城下図によれば、丸岡城を中心に内堀・外堀をめぐらし、郭内には大身の武家屋敷が並び、城の北、郭外にも下級武士の屋敷が置かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報