日本歴史地名大系 「二条内裏跡」の解説
二条内裏跡
にじようだいりあと
「拾芥抄」に「二条殿」として「二条南、東洞院東、入道相国道長造之、二条関白伝領」とあり、二条関白とは道長の兄藤原道兼の別称であるが、道長の子教通も大二条殿の名でよばれているから、道長からその子教通に伝領せられたものと考えられる。この殿は平安時代後期から鎌倉時代前半期にかけての里内裏の一つで、長暦四年(一〇四〇)、後朱雀天皇以後、多くの天皇や上皇が遷御し、二条内裏の名でよばれた。この跡地は現在の
「扶桑略記」によると、長暦四年一〇月二二日に後朱雀天皇が「内大臣藤原朝臣教通二条第」に遷幸したとあり、寛徳三年(一〇四六)四月四日条には後冷泉天皇も移御している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報