後朱雀天皇(読み)ゴスザクテンノウ

デジタル大辞泉 「後朱雀天皇」の意味・読み・例文・類語

ごすざく‐てんのう〔‐テンワウ〕【後朱雀天皇】

[1009~1045]第69代天皇在位1036~1045。一条天皇の第3皇子。名は敦良あつなが。法名、精進行。母は藤原道長の娘彰子。摂関政治最盛期にあたり、彰子の弟藤原頼通関白として威勢を振るった。

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精選版 日本国語大辞典 「後朱雀天皇」の意味・読み・例文・類語

ごすざく‐てんのう‥テンワウ【後朱雀天皇】

  1. 第六九代天皇。一条天皇の第三皇子。母は上東門院藤原彰子。名は敦良(あつなが)。長元九年(一〇三六即位。在位九年の間は藤原頼通が権勢をふるった。譲位して出家。法名、精進行。寛弘六~寛徳二年(一〇〇九‐四五

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改訂新版 世界大百科事典 「後朱雀天皇」の意味・わかりやすい解説

後朱雀天皇 (ごすざくてんのう)
生没年:1009-45(寛弘6-寛徳2)

第69代に数えられる天皇。在位1036-45年。一条天皇の第3皇子,母は太皇太后彰子(上東門院,藤原道長の女)。諱(いみな)は敦良。1017年(寛仁1)に三条院の皇子敦明親王の東宮辞退後,同母兄後一条天皇の皇太弟となる。36年(長元9)後一条天皇が没し,即位。翌年(長暦1)2月,三条皇女禎子内親王(母は道長の女姸子)を皇后とし,ついで翌3月関白頼通の養女嫄子(一条皇子敦康親王の女)を皇后とした。45年正月,病により皇子親仁親王(後冷泉天皇)に譲位,2日後に没す。天皇の治世は疫病流行など災厄も多く,延暦寺僧徒の大規模な嗷訴(ごうそ),伊勢神宮禰宜(ねぎ)らの入京上訴など寺社横暴の増大を感じさせる事件が起こっているが,1040年(長久1)の荘園停止令をはじめ,天皇の政治への意欲もうかがうことができる。天皇の日記《後朱雀天皇御記》(《長暦御記》)があるが逸文が伝わるのみ。陵は円乗寺陵(京都市右京区)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後朱雀天皇」の意味・わかりやすい解説

後朱雀天皇
ごすざくてんのう
(1009―1045)

平安後期の天皇(在位1036~45)。名は敦良(あつなが)。一条(いちじょう)天皇の第3皇子。母は藤原道長(みちなが)の娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)。当時、政治の主導権は道長から子頼通(よりみち)に引き継がれていたが、摂関家(せっかんけ)の全盛期は過ぎていた。1040年(長久1)に、実施はされなかったらしいが、荘園(しょうえん)整理令を発議、この内容は後の寛徳(かんとく)・延久(えんきゅう)の整理令に継承されるもととなっている。病気により位を子に譲ると(後冷泉(ごれいぜい)天皇)、頼通の反対を押し切って尊仁(たかひと)親王を新帝の皇太弟(こうたいてい)に定め(後の後三条(ごさんじょう)天皇)、院政への道を開いた。寛徳2年1月18日死去。陵墓は京都円乗寺陵。

[川島茂裕]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後朱雀天皇」の意味・わかりやすい解説

後朱雀天皇
ごすざくてんのう

[生]寛弘6 (1009).11.25. 京都
[没]寛徳2 (1045).1.18. 京都
第69代天皇(在位 1036~45)。名は敦良(あつなが)。一条天皇の第3皇子。母は中宮上東門院彰子(藤原道長の娘)。長元9(1036)年践祚し,次いで即位した。寛徳2(1045)年譲位して薙髪し,即日薨じた。在位中は関白藤原頼通権力が強く,天皇の意のままにはならなかった。陵墓は京都市右京区の円乗寺陵(えんじょうじのみささぎ)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後朱雀天皇」の解説

後朱雀天皇 ごすざくてんのう

1009-1045 平安時代中期,第69代天皇。在位1036-45。
寛弘(かんこう)6年11月25日生まれ。一条天皇の第3皇子。母は藤原彰子(上東門院)。同母兄後一条天皇の死により即位。藤原頼通(よりみち)が先帝時代につづき関白をつとめる。興福寺や延暦(えんりゃく)寺の僧徒がしばしば騒ぎをおこし,京中で放火が頻発するなど,世情は不安だった。寛徳2年1月18日死去。37歳。墓所は円乗寺陵(えんじょうじのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は敦良(あつなが)。法名は精進行。日記に「後朱雀天皇御記」。
【格言など】春雨のふりしくころは青柳のいとみだれつつ人ぞ恋しき(「新古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典 「後朱雀天皇」の解説

後朱雀天皇

没年:寛徳2.1.18(1045.2.7)
生年:寛弘6.11.25(1009.12.14)
平安中期の天皇。名は敦良。一条天皇の第3皇子で母は中宮彰子(藤原道長の娘)。兄後一条天皇とは年子で土御門殿において生まれた。生後1カ月余で親王宣下を受け,9歳で後一条天皇の皇太弟となる。これは外祖父藤原道長が東宮敦明親王を退任に追いこんだ結果である。兄の死により長元9(1036)年,即位。しかし9年後に病を得て子の後冷泉天皇に位を譲り,2日後に出家し崩じた。後冷泉の母は道長の娘嬉子で,15歳のとき2歳下の東宮敦良親王に入内しており,道長による叔母と甥の結婚策である。在任中は頼通が関白。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円乗寺陵。

(朧谷寿)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後朱雀天皇」の解説

後朱雀天皇
ごすざくてんのう

1009.11.25~45.1.18

在位1036.4.17~45.1.16

一条天皇の第3皇子。名は敦良(あつなが)。母は藤原道長の女上東門院彰子。後一条天皇の同母弟。1017年(寛仁元)敦明(あつあきら)親王が皇太子を辞退したあとをうけて皇太弟に立つ。36年(長元9)後一条天皇の死去により28歳で践祚し,長子(後冷泉(ごれいぜい)天皇)を皇太子に立てた。死に臨んで後冷泉に譲位したが,同時に次子(後三条天皇)の立太子をはかり,関白藤原頼通が難色を示したにもかかわらず,これを実現した。

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百科事典マイペディア 「後朱雀天皇」の意味・わかりやすい解説

後朱雀天皇【ごすざくてんのう】

平安中期の天皇。在位1036年−1045年。諱(いみな)は敦良(あつなが)。一条天皇の第3皇子で,母は彰子(上東門院)。1036年即位,1045年病により親仁親王(後冷泉天皇)に譲位。《後朱雀天皇御記》(《長暦御記》)を著したが,逸文のみが伝わる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「後朱雀天皇」の解説

後朱雀天皇
ごすざくてんのう

1009〜45
平安中期の天皇(在位1036〜45)
一条天皇の皇子。母は藤原道長の娘彰子 (しようし) 。在位中は藤原頼通が関白として全権を掌握。藤原一門の全盛期にあたる。

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367日誕生日大事典 「後朱雀天皇」の解説

後朱雀天皇 (ごすざくてんのう)

生年月日:1009年11月25日
平安時代中期の第69代の天皇
1045年没

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