第69代に数えられる天皇。在位1036-45年。一条天皇の第3皇子,母は太皇太后彰子(上東門院,藤原道長の女)。諱(いみな)は敦良。1017年(寛仁1)に三条院の皇子敦明親王の東宮辞退後,同母兄後一条天皇の皇太弟となる。36年(長元9)後一条天皇が没し,即位。翌年(長暦1)2月,三条皇女禎子内親王(母は道長の女姸子)を皇后とし,ついで翌3月関白頼通の養女嫄子(一条皇子敦康親王の女)を皇后とした。45年正月,病により皇子親仁親王(後冷泉天皇)に譲位,2日後に没す。天皇の治世は疫病流行など災厄も多く,延暦寺僧徒の大規模な嗷訴(ごうそ),伊勢神宮禰宜(ねぎ)らの入京上訴など寺社横暴の増大を感じさせる事件が起こっているが,1040年(長久1)の荘園停止令をはじめ,天皇の政治への意欲もうかがうことができる。天皇の日記《後朱雀天皇御記》(《長暦御記》)があるが逸文が伝わるのみ。陵は円乗寺陵(京都市右京区)。
執筆者:黒板 伸夫
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平安後期の天皇(在位1036~45)。名は敦良(あつなが)。一条(いちじょう)天皇の第3皇子。母は藤原道長(みちなが)の娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)。当時、政治の主導権は道長から子頼通(よりみち)に引き継がれていたが、摂関家(せっかんけ)の全盛期は過ぎていた。1040年(長久1)に、実施はされなかったらしいが、荘園(しょうえん)整理令を発議、この内容は後の寛徳(かんとく)・延久(えんきゅう)の整理令に継承されるもととなっている。病気により位を子に譲ると(後冷泉(ごれいぜい)天皇)、頼通の反対を押し切って尊仁(たかひと)親王を新帝の皇太弟(こうたいてい)に定め(後の後三条(ごさんじょう)天皇)、院政への道を開いた。寛徳2年1月18日死去。陵墓は京都円乗寺陵。
[川島茂裕]
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(朧谷寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1009.11.25~45.1.18
在位1036.4.17~45.1.16
一条天皇の第3皇子。名は敦良(あつなが)。母は藤原道長の女上東門院彰子。後一条天皇の同母弟。1017年(寛仁元)敦明(あつあきら)親王が皇太子を辞退したあとをうけて皇太弟に立つ。36年(長元9)後一条天皇の死去により28歳で践祚し,長子(後冷泉(ごれいぜい)天皇)を皇太子に立てた。死に臨んで後冷泉に譲位したが,同時に次子(後三条天皇)の立太子をはかり,関白藤原頼通が難色を示したにもかかわらず,これを実現した。
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