朝日日本歴史人物事典 「京極秀綱」の解説
京極秀綱
生年:生年不詳
南北朝時代の守護大名。左衛門尉,検非違使,近江守。導誉の子で,嫡子となるべき立場であったが,文和2/正平8(1353)年6月に南朝軍が京都に進軍し,足利義詮 が後光厳天皇を奉じて美濃まで退避しようとしたとき,殿を務めていた秀綱は,近江堅田(滋賀県大津市)において,家来一同と共に防戦し討死した。生年は不詳であるが,「佐野本系図(京極流)」には,討死したときは29歳と記されている。父導誉と共に足利尊氏方の有力武将として活躍し,観応2/正平6年には上総国(千葉県)守護に,翌文和1/正平7年には侍所頭人に就任している。<参考文献>宇野日出生「南北朝期における守護京極氏について」上(『史朋』14号)
(宇野日出生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報