琵琶湖を北湖と南湖に分ける最狭部の西岸に位置する。中世・近世を通じて漁業および湖上交通に圧倒的な権限を有し、またその経済力と自治意識、
寛治四年(一〇九〇)以前に「堅田御厨網人」は網二帖の国役を免除され、京都下鴨社に毎日御膳料として鮮魚を納めることになっていた(同年三月二四日「鴨御祖大神宮申状案」賀茂社諸国神戸記)。この年京都上賀茂神社が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
近江国滋賀郡の地名。11世紀後半には京都の下鴨社(鴨御祖神社)の御厨(みくりや)となっていたことが確かめられるが,それ以前は定かでない。平安末期までには,堅田荘として,延暦寺の荘園ともなっており,1227年(嘉禄3)には,承久の乱の行賞として,佐々木信綱に堅田荘の地頭職が幕府より与えられているところからすると,鎌倉時代の初めには,地頭職・領家職の二つに分かれていたものと推測される(《吾妻鏡》)。しかし,こののち延暦寺の支配が強まるにつれて,地頭職は実質的な意味を持たなくなったとみえ,史料の上からも姿を消す。中世の堅田は,かつて下鴨社より与えられたという,〈櫓(ろ)棹(さお)杵(櫂(かい)か)通路の浜,当社供祭所たるべし〉という特権をふりかざし(《鴨脚家文書》),琵琶湖における漁業・交通の覇者たらんことをめざした。このため諸勢力との摩擦も多く,鎌倉時代には,沖ノ島の葦をめぐって守護佐々木氏と争ったのをはじめとし(《本福寺由来記》),北の菅浦とは,1335年(建武2)ごろから97年(応永4)に至る長い漁場争いを行っている。また湖上交通においては,室町時代には,堅田浦より〈カイソク(海賊)ヲカクル〉ことをしない代償として,諸浦より一種の通行税を徴収するまでになっており,その通行税徴収権は,上乗(うわのり)と呼ばれた。このほか,堅田では,領主延暦寺が設置した湖上関の管理権をも室町時代になると掌握し,湖上に権勢を振るった。
中世の堅田は,大きく分けて殿原(とのばら)衆と呼ばれた地侍と,全人(まとうど)衆と呼ばれた一般の百姓・商工業者の二つの階層よりなっていたが,全人衆の多くはやがて蓮如の教化によって,一向宗門徒となった。この堅田門徒の中心となったのが本福寺である。堅田門徒の台頭に対して領主延暦寺は,1468年(応仁2)堅田を攻撃したので(堅田大責(おおぜめ)),堅田門徒は沖ノ島まで落ちのび,70年(文明2)延暦寺に〈礼銭,礼物〉を支払うまで還住を許されなかった。のち織田信長もこれら一向宗門徒を中心とする堅田の反抗には手を焼いたが,地侍の協力によりようやく弾圧することに成功している。近世には,堅田ははじめ幕府の直轄領であったが,1698年(元禄11)には,堀田正高が入部,堅田藩が成立した。1825年(文政8),堀田氏の居館は撤収され堅田藩の名は消えたが,堀田領であることには変りなく,明治の廃藩置県に至った。1901年(明治34)堅田町となり,67年大津市に編入。
→本福寺跡書
執筆者:下坂 守
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…1898年市制。1932年滋賀村,33年膳所(ぜぜ)町,石山町,51年坂本村,下阪本村,雄琴(おごと)村,下田上村,大石村,67年堅田町,瀬田町を編入。人口27万6332(1995)。…
…南北に長く,南端から約16kmのところがくびれて最も狭く,ここに琵琶湖大橋(1964完成。大津市今堅田町~守山市木浜(このはま)町間,全長1.35km)がかかっている。これを境にして北の主湖盆を北湖,南の副湖盆を南湖と呼ぶ。…
※「堅田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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