…《宇治拾遺物語》には〈今は昔,山科の道づらに,四の宮川原と云所にて,袖くらべといふ,あき人あつまる所あり〉と見え,市も開かれていた。四宮の名の由来は仁明天皇の第4皇子人康(さねやす)親王が営んだ山荘が付近にあったからとも,近在の郷社諸羽(もろは)神社を通称四の宮と称したことによるともいわれている。南北朝期には後白河院御影堂(みえいどう)領としてその名が見え,応仁の乱ごろは山科七郷の一つとして,竹内門跡(曼殊院)の支配下にあった。…
…なぜ,とくに景清が盲人・琵琶法師と結びつくかといえば,壇ノ浦を落ちのびた景清が,平家滅亡の報道者の資格をもつとともに,おそらく景清のカゲが姿かたち,光明を意味すること,すなわちその名がそのまま盲人の切実な欲求を表現することに起因するからだろう。景清が日向や常陸に住んだとされるのも,それが日の立つ国,日に向かう国の光明をイメージさせるからで,そのことは当道(とうどう)座(平家語りの琵琶法師の芸能座)の祖神,常陸宮人康(さねやす)親王が日向に家領を持ったとする伝承(《当道要集》ほか)にも通じている。いずれにせよ,景清の名が盲人と結びついた時点で,すでに幸若舞以後の生目伝説も用意されたといえる。…
…覚一(かくいち)検校(1300?‐71)の時代に至って,組織の体系化が行われ,当道に属する盲人を,検校,勾当(こうとう),座頭などの官位に分かち,全体を職(しよく)または職検校が統括し,その居所である京都の職屋敷がその統括事務たる座務を行う場所となった。さらに,仁明天皇の皇子で盲人の人康(さねやす)親王を祖と仰ぐなどの権威づけを行い,治外法権的性格を持つに至った。それとともに内部に派別も生じ,その名による一方(いちかた)と城方(じようかた)の別以外に,妙観,妙聞(門),師堂(志道),源照(玄正),戸島,大山などのいわゆる当道6派の別も生じた。…
…《今昔物語集》には琵琶にすぐれた宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)蟬丸(せみまる)が,盲目となって逢坂山に住んだが,そのもとに源博雅(みなもとのひろまさ)が3年間通って秘曲を伝授される話を載せる。蟬丸は琵琶法師の祖とされ,醍醐帝第4の皇子という伝承を生むが,一方彼らの自治組織ともいうべき〈当道(とうどう)〉では,仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王を祖神とし,天夜(あまよ)尊としてまつる。散逸した《小右記》には寛和元年(985)7月18日条に,琵琶法師を召して才芸を尽くさしめたことが記されていたといい(《花鳥余情》),《新猿楽記》にも〈琵琶法師之物語〉とあるから,平安時代に叙事詩を語って活躍したことは確かである。…
…視覚障害を伴った人。盲は〈もう〉と読み,〈めくら〉という言葉は使わない。盲といえば何も見えない状況の全盲をさすが,明暗の区別がわかる程度のもの(明暗弁)および眼前の手の動きがわかる程度のもの(手動弁)など強度の弱視も含まれることが少なくない。盲人には盲という生理学上の欠損があっても,触覚や聴覚など視覚以外の感覚を活用しての教育が可能であり,不自由を軽減せしめうる。それでも,移動や意思伝達が制限されて社会生活を営むうえでの不利益をこうむるので,その不利を軽減,緩和するための盲人福祉対策と雇用施策が盲教育とタイアップして進められている。…
※「人康親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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