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山城国宇治郡北方を占め,京より大津に向かう東海道の間にある地名。北西を東山連峰,東を逢坂山(おうさかやま)に囲まれた山科盆地を占め,ほぼ現在の京都市山科区に該当する地域。縄文時代から古墳時代にかけての中臣(なかとみ)遺跡があり,早くから人間が住んでいたことがわかる。山科古窯跡群は7世紀初頭の須恵器窯で,藤原(中臣)鎌足邸の〈山科の陶原(すえはら)〉の地と推定され,中臣氏が領有していたと思われる。天智天皇が〈山科野〉で猟をしたり,陵墓が造営されたことは,中臣氏との関係をうかがわせる。山科の郷名は《和名抄》にみえ,《延喜式》によると,山科園から早瓜が供御月料となっていた。寺院では,興福寺の前身である山階寺(やましなでら)があったといい,平安京遷都後も,安祥寺(あんしようじ),元慶寺(がんぎようじ),勧修寺,随心院,醍醐寺など多くが創建された。また貴族たちの別荘もあり,その山荘の地名から,藤原園人は〈山科大臣〉,仁明天皇の皇子人康親王は〈山科宮〉と呼ばれている。さらに後白河法皇の山科新御所が造営されると,御所の営料として山科の一帯は施入され,法皇の寵妃丹後局(たんごのつぼね)(高階栄子(たかしなえいし))に伝領され,さらに局の子の山科教成に伝えられた。山科家は皇室を本所として代官職の家となり,山科を代々管理した。山科家は高倉家と並んで装束の有職(ゆうそく)の家柄である。南北朝以降の郷村制の発達にともない,この地は山科七郷として組織された。山科家の史料は,東京大学史料編纂所,国立公文書館内閣文庫,宮内庁書陵部などに膨大な量が残されており,郷村内のことがよくわかる。1478年(文明10)には浄土真宗の山科本願寺が設置され,1532年(天文1)8月に柳本信尭,六角定頼らが法華宗徒を率いて本願寺を焼くまで,真宗の本拠地であり,その間,本願寺の寺内町として栄えた。
執筆者:藤本 孝一 山科の地は近世も引き続き禁裏御料(皇室領)が多く,1601年(慶長6)徳川家康が京都近郊に設定した御料1万石の約6割がここである。1700年(元禄13)の郷帳では四宮,安朱,御陵など20ヵ村が記され(以後多少変動あり),禁裏御料のほか随心院,勧修寺,醍醐寺および毘沙門堂領も存在した。この地の山科郷士は禁裏との関係が強く,天皇即位ごとの参賀のほか,幕末期など一朝事あるたびに御所の警備についている。山科盆地のとくに山際は水利が悪く,そのため溜池も多く設けられ,米作のほか大麦,小麦,木綿,菜種,煙草,茶および枇杷(びわ),筍(たけのこ)なども産した。また東海道筋にあたるため京都~大津間の交通が頻繁で,この地から大津へ稼ぎに出る人馬もみられた。1926年町制,31年東山区に編入されたが,76年山科区として分離した。
執筆者:樋爪 修
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京都市東部の地域。山科区を構成する。京都盆地と東山(ひがしやま)丘陵で隔てられた山科盆地の北部を占め、東は醍醐(だいご)山地が連なる。大津市との境にある逢坂(おうさか)山峠は、京都から東へ向かう唯一の通路で、古くから東海道が通じ、現在もJR東海道本線、東海道・山陽新幹線、JR湖西線、京阪電鉄京津線、名神高速道路、国道1号が逢坂山を越える。そのほか、市営地下鉄東西線も通じている。
古くは遊猟の地で、貴紳の山荘が営まれ、安祥寺、勧修(かじゅう)寺、随心(ずいしん)院などの寺院が建立された。1478年(文明10)蓮如(れんにょ)が山科本願寺を造営し、寺内町八町が設けられたが、1532年(天文1)六角定頼(ろっかくさだより)と法華(ほっけ)宗徒に焼打ちされ、のちに東西両本願寺の山科別院が再建された。明治末ごろまでは純農村で、山科ナスの栽培など近郊農業が営まれたが、1912年(大正1)京津電車(現、京阪電鉄京津線)が開通して京都市との結び付きが強まり、1931年(昭和6)山科町は京都市東山区に編入された。第二次世界大戦後は急速に宅地化が進み、現在では大部分が市街地となり、1976年には東山区から分かれて山科区が成立した。山科盆地北部に天智(てんじ)天皇陵、南部に随心院、勧修寺などがある。
[織田武雄]
『『京都府山科町誌』(1930・山科町)』
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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