藤原基経(読み)フジワラノモトツネ

デジタル大辞泉 「藤原基経」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もとつね〔ふぢはら‐〕【藤原基経】

[836~891]平安前期の公卿。諡号しごう昭宣公。通称、堀河太政大臣。叔父良房の養子となり、応天門の変伴善男を失脚させ、また、光孝宇多両天皇を擁立して最初の関白となり、娘温子を女御とするなど、藤原北家の権力を固めた。「文徳実録」を撰進。→阿衡あこう事件

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精選版 日本国語大辞典 「藤原基経」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もとつね【藤原基経】

  1. 平安前期の公卿。太政大臣。関白。通称、堀河太政大臣。父は長良。母は総継の娘。叔父良房の養子となる。応天門の変で伴善男を失脚させ、貞観一四年(八七二)良房の後をつぎ、陽成天皇の摂政となったが、陽成天皇を廃して光孝天皇を迎立。執政を委任され、後の関白職をひらき、次いで宇多天皇をたて、最初の関白の詔を賜わったが、この時阿衡(あこう)事件を起こし、天皇家に対する藤原氏の発言力を確立。死後越前公に封ぜられ、昭宣公の諡号(しごう)を賜わる。承和三~寛平三年(八三六‐八九一

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原基経」の意味・わかりやすい解説

藤原基経 (ふじわらのもとつね)
生没年:836-891(承和3-寛平3)

平安初期の官人。堀河大臣とも称された。藤原長良の三子で,母は藤原乙春。のち良房の養子となり,養父のあとをうけて氏長者として藤原北家の隆盛を画した。851年(仁寿1)16歳のときに文徳天皇から加冠されて元服し,蔵人,左兵衛佐,少納言,侍従などを経て,清和天皇が即位した直後の858年(天安2)10月に蔵人頭となった。ついで864年(貞観6)29歳で参議となり,翌々年の応天門の変では,父良房とともに政敵伴善男を失脚させることに成功し,その年12月には従三位となり7人を超えて中納言となった。ついで左大将,大納言を経て,872年太政大臣藤原良房の死の直前に正三位右大臣となった。良房の死後〈摂政〉となったとする記録もあるが,後世の観念にもとづく述作であろう。しかし876年清和天皇は陽成天皇に譲位するにあたって,基経に良房の先例にならって幼主を保輔して〈摂政〉とすることを詔している。ついで880年(元慶4)12月,清和上皇の没日に,〈摂政〉に相当する官職として太政大臣に任ぜられた。しかしその職掌が不明確なこともあって,基経は固辞して出仕しない日も多かったようである。884年基経は陽成天皇を廃位して光孝天皇を擁立し,新天皇は基経に万機をゆだねる旨の詔を出し,実際には〈関白〉と同様な立場にたった。基経の言動には形式を重視したものが多いが,887年(仁和3)宇多天皇が即位にあたって基経に与えた〈関白〉の詔を契機に起こった阿衡(あこう)事件は,基経の政治意識を象徴するものとしても注目される。890年(寛平2)准三宮となったが年末には病を理由に辞表を出し,翌年正月に没し,正一位が追贈され,昭宣公と諡(おくりな)された。この間《日本文徳天皇実録》の編纂にもかかわった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原基経」の意味・わかりやすい解説

藤原基経
ふじわらのもとつね
(836―891)

平安前期の官僚。藤原長良(ながら)(良房(よしふさ)の兄)の第3子で、母は藤原乙春(おとはる)。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた。851年(仁寿1)に16歳で文徳(もんとく)天皇から加冠されて元服し、858年(天安2)に即位した清和(せいわ)天皇のもとで蔵人頭(くろうどのとう)となり、864年(貞観6)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」では源信(まこと)の無実を伝え、伴善男(とものよしお)が失脚したのち、7人を抜いて中納言(ちゅうなごん)となり、872年には正三位(しょうさんみ)右大臣となった。ときに37歳。その政治は良房の先例を法的に整合性をもった体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。基経が形式を重んじた理由もこれと無縁ではあるまい。良房の死(872)後、摂政(せっしょう)となったとする史料もあるが、後世の付会であろう。876年陽成(ようぜい)天皇に譲位するにあたって清和天皇は良房の例にならって摂政となるように詔(みことのり)している。

 880年(元慶4)太政(だいじょう)大臣に任ぜられたが、その職掌に疑義をもっていたらしく固辞し、基経の出仕しない日も多かったらしい。4年後言動に問題のあった陽成天皇を廃位し、光孝(こうこう)天皇を擁立したが、新天皇は基経に万機をゆだねる旨の詔を出したことにより、実質上の関白となった。887年(仁和3)宇多(うだ)天皇の即位にあたって基経に与えた関白の詔の文字をめぐって起こった阿衡(あこう)事件は基経の政治姿勢を象徴している。890年(寛平2)准三宮(じゅさんぐう)となる。翌年正月13日に没し、正一位・昭宣公が贈られ、越前(えちぜん)に封ぜられた。菅原道真(すがわらのみちざね)らとも交わり、『日本文徳天皇実録』の編纂(へんさん)にも携わった。

[佐藤宗諄]

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朝日日本歴史人物事典 「藤原基経」の解説

藤原基経

没年:寛平3.1.13(891.2.25)
生年:承和3(836)
平安前期の公卿。人臣最初の関白。長良と藤原総継の娘乙春の3男。幼名手古。堀川太政大臣と称された。叔父藤原良房の養子となり,貞観6(864)年,29歳で参議,同8年の応天門事件直後には上席者7人をこえて中納言に昇進,さらに同14年右大臣となり,名実ともに良房の後継者となった。良房没後,同18年11月,妹高子が生んだ陽成天皇が9歳で即位すると摂政となり,元慶4(880)年12月,太政大臣に就任したが,陽成が15歳で元服するやその粗暴な振る舞いに手を焼き,摂政の辞表を提出して自宅に引きこもっている。次いで禁中で起こした格殺事件を口実に,元慶8年2月,これを退位に追いやり55歳の光孝天皇を立て,事実上の関白として遇されている。しかし次の宇多天皇が即位直後,関白就任を要請した詔の中に,「阿衡の任をもって卿の任とすべし」という文言があったことから,これを虚職とみなし,政治をサボタージュして天皇に精神的圧迫をかけた様子は『宇多天皇日記』に詳しい。いわゆる阿衡事件(紛議とも)であるが,不満をサボタージュの形で表すのが基経の常套手段であった。事件は起草者の橘広相が天皇から詰腹を切らされる形で落着したが,その直後に娘温子が入内しているのは,天皇との政治的妥協の産物であろう。仁和1(885)年5月,光孝に献進した「年中行事障子」は,以後における宮廷行事の規範となったという点からも重要である。『文徳実録』の編纂にも携わった。仁明天皇の笙の師としても知られる。越前国(福井県)に封じられ,昭宣公と諡された。<参考文献>目崎徳衛『王朝のみやび』,瀧浪貞子『平安建都』

(瀧浪貞子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原基経」の意味・わかりやすい解説

藤原基経
ふじわらのもとつね

[生]承和3(836).京都
[没]寛平3(891).1.13. 京都
平安時代前期の廷臣。長良の子。母は光孝天皇の外祖父藤原綱継の娘乙春。叔父良房の養子となり宗家を継いだ。仁寿1 (851) 年文徳天皇の親臨を得て加冠し,翌年蔵人。その後,左兵衛少尉,侍従,左兵衛佐,少納言,左近衛少将,蔵人頭,播磨介,左近衛中将などを経て貞観6 (864) 年参議。同8年応天門の変に際しては良房とはかって大伴氏,紀氏の勢力をそぎ,藤原氏政権の基礎を築いた。同年中納言,同 10年左大将,同 11年按察使,同 12年大納言,同 14年右大臣。同 18年幼帝陽成天皇の践祚とともに摂政,元慶4 (880) 年関白,太政大臣。同7年頃からは天皇と不和となって出仕せず,翌年陽成天皇を廃し,時康親王を立てて光孝天皇とした。しかし,天皇は基経をはばかって皇太子を定めないまま仁和3 (887) 年に崩じたので次代宇多天皇も基経の意思によって嗣立された。即位の直後,関白の詔を受けたが,その辞句を口実としていわゆる阿衡事件を生み,ついに詔書を改作させて,天皇に対する発言力を絶対化した。寛平2 (890) 年病にかかって関白を辞した。死後正一位を贈られ越前国に封じられた。諡,昭宣公。撰修に『日本文徳天皇実録』がある。

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百科事典マイペディア 「藤原基経」の意味・わかりやすい解説

藤原基経【ふじわらのもとつね】

平安前期の高官。長良(ながら)の子。叔父良房の養子。876年摂政,880年太政大臣。884年陽成(ようぜい)天皇を廃し光孝(こうこう)天皇を即位させて関白と同様の立場に立った。887年宇多天皇を擁立して正式に関白の称号を得,これを契機としておこった阿衡(あこう)事件によって関白の権威を天皇に認めさせ,藤原氏の摂関政治を確立した。
→関連項目光孝天皇木幡日本文徳天皇実録陽成天皇

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原基経」の解説

藤原基経
ふじわらのもとつね

836~891.1.13

9世紀後半の公卿。長良(ながら)の三男,のち叔父良房(よしふさ)の猶子。母は藤原総継の女乙春(おとはる)。諡は昭宣公。851年(仁寿元)元服,翌年蔵人となり,侍従・少納言・蔵人頭などをへて,864年(貞観6)参議。幼少から才気煥発で父はその才能を見抜き,文徳天皇に寵愛された。866年にはいっきょに従三位中納言に昇進した。大納言をへて872年8月正三位右大臣となり,まもなく没する良房にかわって,以後清和・陽成(ようぜい)・光孝・宇多の4天皇20年間にわたる国政を領導した。この間,陽成天皇の幼少の間の摂政,宇多天皇の関白を勤め,太政大臣従一位まで昇進。関白の職掌をめぐって紛糾した阿衡(あこう)の紛議事件は有名だが,元慶(がんぎょう)官田の設置や元慶の乱の収拾,陽成天皇の廃位など政治的手腕も優れていた。学問・芸術にも造詣が深く,「文徳実録」編纂を行い,笙(しょう)の名人でもあった。891年(寛平3)堀河院の邸宅で没。贈正一位,封越前国。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原基経」の解説

藤原基経 ふじわらの-もとつね

836-891 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
承和(じょうわ)3年生まれ。北家藤原長良(ながら)の3男。叔父良房の養嗣子。右大臣をへて,元慶(がんぎょう)4年(880)太政大臣。8年陽成(ようぜい)天皇を廃立,光孝天皇をたてて実質上はじめての関白となる。仁和(にんな)3年(887)宇多天皇即位のとき,関白の職掌をめぐって「阿衡(あこう)の紛議」をおこした。「日本文徳天皇実録」を撰進。寛平(かんぴょう)3年1月13日死去。56歳。贈正一位。諡(おくりな)は昭宣公。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原基経」の解説

藤原基経
ふじわらのもとつね

836〜891
平安前期の公卿
摂政・関白。通称堀河太政大臣。長良 (ながら) の子。叔父良房の養子となってしだいに昇進。884年陽成天皇に代えて光孝天皇を立て,事実上最初の関白となり,887年阿衡事件以後名実ともに関白となった。『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原基経の言及

【阿衡事件】より

…平安前期に起こった,天皇と権臣との政治抗争。北家藤原氏の良房が文徳・清和朝に外戚として政権をとった後を継いだ養子基経は,その妹高子の生んだ幼帝陽成天皇の摂政となっていた。しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。…

【関白】より

…執柄(しつぺい),博陸(はくろく),霍光(かくこう)ともいう。中国前漢の宣帝が霍光に対し,〈諸事皆まず関(あずか)り白(もう)すべし〉と命じたのに由来するが,日本では宇多天皇が887年(仁和3)太政大臣藤原基経に対して下した詔に関白の語がみえるのが初例。なお884年(元慶8)に光孝天皇が基経に下した勅に,のちの関白と実質を等しくする語句のあることから,これを関白の起源とする説もある。…

【摂関政治】より

…平安時代,藤原氏出身の摂政関白が天皇に代わって,あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。 推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。…

【摂政】より

…君主に代わって万機を執り行う者,または執り行うことをいう。君主が未成年の間,あるいは君主に事故があった場合などに置かれる。
【日本】

[古代~近世]
 摂政はその出自より大別して,皇族摂政と人臣摂政に分けられる。《日本書紀》に仲哀天皇没後神功皇后が摂政になったとあるのを摂政の初例とするが,これは摂政というより称制というのにふさわしく,また伝説的要素も多く,信をおきがたい。古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。…

【日本文徳天皇実録】より

文徳天皇代,850年(嘉祥3)から858年(天安2)まで9年間のことを記す。清和天皇の命をうけて藤原基経らが編纂にあたり,陽成天皇の879年(元慶3)完成。実録は中国で皇帝1代ごとに,起居注をもとにその治世を記し,歴史編纂の材料としたもの。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原基経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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