人見 一太郎
ヒトミ イチタロウ
明治期の評論家,ジャーナリスト,実業家
- 生年
- 慶応1年11月11日(1865年)
- 没年
- 大正13(1924)年9月29日
- 出生地
- 肥後国宇土郡段原村(熊本県宇土市)
- 別名
- 号=呑牛,的面生,鬼的面
- 学歴〔年〕
- 熊本師範〔明治17年〕卒
- 経歴
- 明治18年徳富蘇峰の大江義塾に入り、以後蘇峰と行動を共にし民友社で活躍。20年「国民之友」編集人、23年「国民新聞」論説記者を務めた。その一方で大日本青年協会を組織し、20年機関誌「青年思海」を創刊。23年には青年文学会を結成。22年から24年にかけてJ・ブライスの「平民政治」全25冊を民友社から刊行。26年「第二之維新」「国民的大問題」を著わす。30年民友社を退社、32年渡仏し、帰国後「欧洲見聞録」を著わした。36年実業界に転じ、製糖業に従事した。他の著書に「ユーゴー」「警文学者」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
人見一太郎
没年:大正13.9.29(1924)
生年:慶応1.11.11(1865.12.28)
明治時代のジャーナリスト。肥後国(熊本県)の農家に順造,積世の子として生まれる。明治17(1884)年徳富蘇峰の大江義塾に入塾し,以後蘇峰に従う。20年民友社が設立されると『国民之友』の編纂人となり,23年創刊の『国民新聞』の論説記者としても活躍した。主な著書に薩長藩閥政府を攻撃した『第二之維新』(1893),条約改正問題を扱った『国民的大問題』(1893)などがある。蘇峰の外遊中(1896~97)は後事を託されたが,蘇峰の帰国後まもなく退社。渡仏し,その経験を『欧州見聞録』(1901)に著した。36年実業界に転じ,製糖業に従事した。<著作>柳田泉編『民友社文学全集』(明治文学全集36巻)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
人見一太郎 ひとみ-いちたろう
1865-1924 明治時代の評論家,実業家。
慶応元年11月11日生まれ。徳富蘇峰(そほう)の大江義塾にまなぶ。以後蘇峰をたすけ,民友社,国民新聞社で活躍する。日清戦争後退社,渡仏し,博覧会で日本を紹介。のち実業界に転じ,台湾などで事業をおこなった。大正13年9月29日死去。60歳。肥後(熊本県)出身。熊本師範卒。号は呑牛。評論に「第二之維新」,訳書にブライス「平民政治」など。
【格言など】立派な口実は人を欺くことが出来る,併し己れの良心を欺くことは出来ない(「明治の天下」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
人見 一太郎 (ひとみ いちたろう)
生年月日:1865年11月11日
明治時代の評論家;実業家
1924年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の人見一太郎の言及
【アメリカン・コモンウェルス】より
…ブライスは長く自由党所属の下院議員であったが,1907年より13年までアメリカ大使をつとめた。なお,原書の刊行直後に人見一太郎により《平民政治》25冊(1889‐91)として完訳が刊行されている。【斎藤 眞】。…
【明治維新】より
…民権運動が目標とした国会開設の原点は[五ヵ条の誓文]に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の[民友社]の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。…
※「人見一太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」