徳富蘇峰(読み)トクトミソホウ

デジタル大辞泉 「徳富蘇峰」の意味・読み・例文・類語

とくとみ‐そほう【徳富蘇峰】

[1863~1957]評論家。熊本の生まれ。本名、猪一郎。蘆花の兄。同志社中退後、自由民権運動に参加。のち民友社を設立、「国民之友」「国民新聞」を発刊し、平民主義を主張。日清戦争後は政府と結び、国家主義の鼓吹者となった。著「近世日本国民史」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「徳富蘇峰」の意味・読み・例文・類語

とくとみ‐そほう【徳富蘇峰】

  1. 評論家、歴史家。本名猪一郎。熊本県出身。同志社中退。明治二〇年(一八八七)「民友社」を創設、雑誌「国民の友」を創刊、同二三年「国民新聞」を創刊。以後四〇年間にわたって社長・主筆として自由平等、平民主義の論陣を張り、近代日本の代表的時論家として活躍。日清戦争以降は国粋主義に傾き、第二次世界大戦中には、大日本言論報国会会長をつとめた。主著「近世日本国民史」。文久三~昭和三二年(一八六三‐一九五七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳富蘇峰」の意味・わかりやすい解説

徳富蘇峰
とくとみそほう
(1863―1957)

明治・大正・昭和の3代にわたるジャーナリスト、歴史家。文久3年1月25日、肥後国上益城(かみましき)郡益城町字杉堂村(現、熊本市東区秋津町)に出生。本名猪一郎(いいちろう)。蘆花(ろか)の兄。徳富家は代々惣庄屋(そうしょうや)兼代官を勤め、父一敬(いっけい)(1822―1914)は横井小楠(よこいしょうなん)の高弟で、肥後実学党の指導者として幕末から明治10年代にかけて開明的思想家として活躍した。蘇峰は、肥後実学党系の漢学塾で学んだのち、1875年(明治8)熊本洋学校に入学、漢訳の『新・旧約聖書』に触れて、西洋の学問やキリスト教に興味を開かれた。翌1876年熊本バンドの結盟に参加。これを契機に漢学や儒教倫理の支配する旧世界を抜け出し、1876年同志社英学校に入学、同年12月新島襄(にいじまじょう)より受洗。1880年同校を退学して上京、新聞記者への志果たせず帰郷。郷里の水俣(みなまた)にあって自由党系の民権結社相愛社に加入、強烈なナショナリズムに裏づけられた民権論を主張した。1882年3月大江村の自宅に大江義塾を開校し、1886年9月閉鎖するまで英学・歴史・経済・政治学等を担当して郷里の青年の教化に努めた。この間、蘇峰はビクトリア自由主義の思想家に多くを学び、平民主義の思想を形成していった。蘇峰のいう「平民主義」とは、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済社会を基礎としつつ、個人の固有の権利の尊重と平等主義とが貫徹する社会の実現を目ざすものであり、明治政府ばかりでなく民権論者の論調にみられる国権主義や武備拡張主義の誤謬(ごびゅう)を鋭くつくと同時に、自由にして安全な生活と幸福を求める平和主義、自由主義、平等主義の若々しい宣言であった。大江義塾時代の研鑽(けんさん)の結晶として『第十九世紀日本ノ青年及其(その)教育』(1885)を自費出版し、『将来之日本』(1886)を刊行して中央の論壇に華々しくデビューした蘇峰は、1887年民友社を設立して雑誌『国民之友』を創刊、1890年には『国民新聞』を創刊して、以後、明治・大正・昭和の3代にわたるオピニオン・リーダーとして活躍した。この間、日清(にっしん)戦争後の三国干渉を機に国家主義の立場を鮮明にし、従来の平民主義からの変節と非難された。政治的には桂太郎(かつらたろう)と結び、日露講和での日比谷騒擾(ひびやそうじょう)事件や、大正政変では社屋が焼打ちにあった。晩年は『近世日本国民史』全100巻(1918~1952・時事通信社)の執筆に専念した。1911年(明治44)貴族院勅選議員。太平洋戦争の宣戦の詔勅の起草者。1942年(昭和17)大日本言論報国会会長。1943年文化勲章受章。太平洋戦争後は公職追放を受け、熱海(あたみ)に隠棲(いんせい)した。昭和32年11月2日死去。

[田代和久 2016年9月16日]

『神島二郎編『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』(1978・筑摩書房)』『『近世日本国民史』(講談社学術文庫)』『杉井六郎著『徳富蘇峰の研究』(1977・法政大学出版局)』『花立三郎著『大江義塾』(1982・ぺりかん社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「徳富蘇峰」の意味・わかりやすい解説

徳富蘇峰 (とくとみそほう)
生没年:1863-1957(文久3-昭和32)

新聞人,文筆家。名は猪一郎(いいちろう)。蘆花の兄。肥後国水俣の郷士の子。熊本洋学校をへて同志社に入り,新島襄の薫陶をうけ,一度はキリスト教の洗礼をうけるが,1880年同校を中退し郷里へ帰る。熊本では自由民権の結社相愛社に加盟し,政談演説や新聞編集に従事するが,82年より自宅に大江義塾を開き,自由主義を標榜した実学教育を行う一方,いくつかのパンフレットを自費出版し,文筆活動に入る準備をする。この間,東京や高知に旅行し板垣退助,中江兆民,田口卯吉らの知遇をえる。86年《将来之日本》を出版して一躍文名を高め,一家を挙げて上京し,翌87年2月民友社を創立し《国民之友》を発刊する。平民的欧化主義を旗印としたこの雑誌は,政治・経済・社会から宗教・文芸にわたる多面的で新鮮な編集によって異常な人気を呼んだ。90年には余勢をかって《国民新聞》を創刊し,報道紙としての新聞という面で新機軸を打ち出す。日清戦争開戦前後から国家の対外的膨張を自然かつ当然とする膨張主義の立場へと移りはじめ,三国干渉後はこの立場から挙国一致と軍備増強を叫ぶようになる。97年松方内閣の内務省勅任参事官就任を機に〈変節〉の非難を招き,《国民之友》は廃刊に追い込まれた。その後も山県有朋,桂太郎に接近し機務にあずかったため,日露講和と大正政変の2度にわたって,新聞社は民衆の襲撃をこうむった。1913年の桂の死を機に政治の機務からは離れ,100冊に及ぶ《近世日本国民史》の著作を始める(1952年に完結)が,一方では《時務一家言》などの著述を通じて,デモクラシーと国際協調の風潮を批判しつづける。23年の関東大震災で新聞社は全焼し,29年には新聞を手放さざるをえなくなった。しかし,このころからファッショ化の波にのって声望が高まり,日米開戦前後には最高潮に達して,宣戦の詔勅の起草にあずかっただけでなく,大日本言論報国会,大日本文学報国会の会長を兼ね,43年文化勲章を受けた(1946年返上)。敗戦後は戦犯容疑者に指定され公職追放となるが,52年に追放を解除された。

 蘇峰の思想は日清戦争を境として激しく変化した。初期には平民主義ないし平民的欧化主義を唱え,明治政府による強兵中心の近代化を批判したのに反して,後期には国家膨張主義を鼓吹し,それとの関連で皇室中心主義,国家社会主義,軍国主義を説いた。しかし,〈世界の大勢〉に基づいて日本のあり方を決めようとする考え方という点では,前後一貫している。つまり初期には軍事型社会より産業型社会へ,貴族的社会より平民的社会へという歴史の進化が,世界の大勢と考えられたのに対し,後期には〈人種的な生存競争〉が世界の大勢ととらえられたわけである。蘇峰は天成のジャーナリストとでもいうべき人物で,人間にかかわることは何にでも興味をもち,すばやく理解してわかりやすく表現する能力に恵まれていた。しかし,思考の深さと緻密さという点では弱さがあり,文章も理性的に考えさせるというよりは,読者を扇動して自己の側に組織化するという傾向が強かった。著書は時論から史論,文芸論にまでわたり,300冊前後に達する。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「徳富蘇峰」の解説

徳富 蘇峰
トクトミ ソホウ


肩書
貴院議員(勅選),民友社創立者,国民新聞主宰,貴院議員(勅選)

本名
徳富 猪一郎(トクトミ イイチロウ)

生年月日
文久3年1月25日(1863年)

出生地
肥後国上益城郡津森村杉堂(熊本県益城町)

出身地
肥後国葦北郡水俣(熊本県水俣市)

学歴
熊本洋学校卒 同志社英学校〔明治13年〕中退

経歴
熊本洋学校に学び、14歳の最年少で熊本バンドに参加。同志社を中退して明治14年郷里熊本に自由民権を旗印に大江義塾を開く。19年に上京して「将来之日本」を刊行。20年民友社を創立し、「国民之友」を創刊、23年には「国民新聞」を発刊して平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなる。しかし、次第に国家主義的な論調に変貌しはじめ、日清戦争には国民新聞社をあげてジャーナリズム方面から協力した。日清戦争後は内務省参事官になるなどして変節を非難されたが、桂内閣の論客として「国民新聞」に健筆をふるい、皇室中心の思想を唱えた。44年勅選貴族院議員、大正2年には政界を離れ、以後評論活動に力を注いだ。昭和4年経営不振から国民新聞社を退社。徳富の唱えた皇室中心の国家主義思想は第二次大戦下の言論・思想界の一中心となり、17年からは大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長を務める。戦後はA級戦犯容疑者、公職追放の指名を受け、熱海に引き籠った。主著に「吉田松陰」「杜甫と弥耳敦」、「近世日本国民史」(全100巻)など。明治・大正・昭和3代にわたって言論界のオピニオン・リーダーとして重きをなした。平成10年山梨県山中湖村に山中湖文学の森・徳富蘇峰館が開館。

受賞
勲三等〔大正4年〕 帝国学士院賞恩賜賞(第13回)〔大正12年〕「近世日本国民史」 文化勲章〔昭和18年〕 熊本市名誉市民,水俣市名誉市民

没年月日
昭和32年11月2日

家族
父=徳富 一敬(漢学者) 弟=徳冨 蘆花(小説家)

資格
?国学士院会員〔大正14年〕(昭和21年辞退) 帝国芸術院会員〔昭和12年〕(21年辞退)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

百科事典マイペディア 「徳富蘇峰」の意味・わかりやすい解説

徳富蘇峰【とくとみそほう】

ジャーナリスト,評論家。本名猪一郎。肥後国生れ。徳冨蘆花の兄。熊本洋学校を経て同志社に入るが,中退。1886年《将来之日本》で文名をあげ,翌年民友社を創立。平民的欧化主義をとる雑誌《国民之友》,《国民新聞》を創刊。日清戦争前後は国家主義に転じた。のち《皇道日本之世界》《興亜之大戦》などを著し,大日本言論報国会会長につくなど盛んに文章報国を唱えた。第2次大戦後公職追放。主著《近世日本国民史》。1943年文化勲章(1946年返上)。
→関連項目熊本洋学校島田清次郎中西梅花新島襄日本文学報国会舞姫松崎天民宮崎滔天民友社矢島楫子横井小楠

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

20世紀日本人名事典 「徳富蘇峰」の解説

徳富 蘇峰
トクトミ ソホウ

明治〜昭和期の評論家,新聞人,歴史家 民友社創立者;国民新聞主宰;貴院議員(勅選)。



生年
文久3年1月25日(1863年)

没年
昭和32(1957)年11月2日

出生地
肥後国上益城郡津森村杉堂(熊本県益城町)

出身地
肥後国葦北郡水俣(熊本県水俣市)

本名
徳富 猪一郎(トクトミ イイチロウ)

学歴〔年〕
熊本洋学校卒,同志社英学校〔明治13年〕中退

主な受賞名〔年〕
勲三等〔大正4年〕,帝国学士院賞恩賜賞(第13回)〔大正12年〕「近世日本国民史」,文化勲章〔昭和18年〕,熊本市名誉市民,水俣市名誉市民

経歴
熊本洋学校に学び、14歳の最年少で熊本バンドに参加。同志社を中退して明治14年郷里熊本に自由民権を旗印に大江義塾を開く。19年に上京して「将来之日本」を刊行。20年民友社を創立し、「国民之友」を創刊、23年には「国民新聞」を発刊して平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなる。しかし、次第に国家主義的な論調に変貌しはじめ、日清戦争には国民新聞社をあげてジャーナリズム方面から協力した。日清戦争後は内務省参事官になるなどして変節を非難されたが、桂内閣の論客として「国民新聞」に健筆をふるい、皇室中心の思想を唱えた。44年勅選貴族院議員、大正2年には政界を離れ、以後評論活動に力を注いだ。昭和4年経営不振から国民新聞社を退社。徳富の唱えた皇室中心の国家主義思想は第二次大戦下の言論・思想界の一中心となり、17年からは大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長を務める。戦後はA級戦犯容疑者、公職追放の指名を受け、熱海に引き籠った。主著に「吉田松陰」「杜甫と弥耳敦」、「近世日本国民史」(全100巻)など。明治・大正・昭和3代にわたって言論界のオピニオン・リーダーとして重きをなした。平成10年山梨県山中湖村に山中湖文学の森・徳富蘇峰館が開館。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「徳富蘇峰」の解説

徳富蘇峰

没年:昭和32.11.2(1957)
生年:文久3.1.25(1863.3.14)
明治大正昭和期の新聞記者,歴史家。肥後国葦北郡水俣郷(熊本県水俣市)の豪農徳富一敬と久子の長男に生まれる。本名は猪一郎。弟は徳冨蘆花。父と共に熊本に出て,漢学を学び,のちに熊本洋学校に入学。教師L.L.ジェーンズの感化によってキリスト教に入信,先輩と花岡山山頂で奉教を誓った(熊本バンド)。さらに同志社に学んだが,新島襄と衝突し,明治13(1880)年退学。故郷に帰り,自由民権運動に参加,15年私塾大江義塾を開き,自らの学習と教育に当たった。19年塾を閉鎖し上京,『将来之日本』を刊行,一躍新進評論家として注目を集める。20年,民友社を設立し,雑誌『国民之友』を創刊,青年層を中心に圧倒的支持を得た。この年には『新日本之青年』も出版し,文字通り「明治の青年」の指導者となった。23年には『国民新聞』を発刊し,「平民主義」を標榜する言論によってジャーナリズムをリードした。しかし,日清戦争(1894~95)前後から対外膨張を主張するようになり,30年の欧米巡覧によって決定的となった。44年貴族院勅選議員。明治後半から大正初期は藩閥,特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開し,彼の国民新聞社は2度にわたって民衆に焼き打ちされた。桂死後の大正中期以降は,社会の大衆化に危機感を深め,皇室中心主義による国民道徳を唱え,「近世日本国民史」を連載するなど言論界の一方の雄であった。昭和4(1929)年国民新聞社の経営難から退社を余儀なくされ,以後は大阪毎日新聞社の社賓となる。<著作>『蘇峰自伝』『明治文学全集34・徳富蘇峰集』<参考文献>杉井六郎『徳富蘇峰の研究』

(有山輝雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳富蘇峰」の意味・わかりやすい解説

徳富蘇峰
とくとみそほう

[生]文久3(1863).1.25. 肥後
[没]1957.11.2. 熱海
ジャーナリスト,歴史家。本名は猪一郎。蘆花の兄。熊本洋学校に学んだのち,1876年同志社に入学したが中退。 1882年熊本に大江義塾を開いた。 1886年『将来之日本』の出版で世の注目を浴び,上京。 1887年民友社を設立して,雑誌『国民之友』を,1890年には『国民新聞』を創刊。平民主義と欧化主義を主張し,若い知識人層に歓迎された。しかし 1895年の三国干渉事件を契機に藩閥政府 (特に桂太郎) に接近,1911年には貴族院議員にまで選ばれた。そのため知識人らの支持を失い,『国民之友』は 1898年に廃刊。『国民新聞』は日露戦争後に2度 (1905,1913) も民衆から焼き打ちされた。そして経営不振のあげく,1929年に退社を余儀なくされ,『毎日新聞』の社賓となって代表作『近世日本国民史』 (100巻) を連載した。軍国主義時代には軍部と癒着し,1942年に大日本言論報国会の会長となって言論界に君臨した。 1943年文化勲章受章。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳富蘇峰」の解説

徳富蘇峰
とくとみそほう

1863.1.25~1957.11.2

明治~昭和期の言論人。本名猪一郎(いいちろう)。父一敬(かずたか)は横井小楠の高弟,徳冨蘆花(ろか)は弟。肥後国生れ。熊本洋学校をへて同志社に学ぶ。熊本で大江義塾を経営後,1887年(明治20)民友社を創立して雑誌「国民之友」,90年「国民新聞」を創刊,平民主義を唱えて言論人としての地位を確立。日清戦争後は国家主義的論調の時局論を展開,政治的には桂太郎と密接な関係をもった。1929年(昭和4)国民新聞社を退社するが,言論活動は生涯継続した。修史事業をライフワークとし,「近世日本国民史」100巻を完成。他に200冊近い著作がある。第2次大戦中には大日本文学報国会・大日本言論報国会の会長に就任,戦後はA級戦犯容疑者となった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳富蘇峰」の解説

徳富蘇峰 とくとみ-そほう

1863-1957 明治-昭和時代のジャーナリスト,評論家。
文久3年1月25日生まれ。徳富一敬(かずたか)の長男。徳冨蘆花(ろか)の兄。明治19年「将来之日本」で文名をあげる。20年民友社を創立,「国民之友」「国民新聞」を創刊し,平民主義を主張。日清(にっしん)戦争を機に国家主義にかたむく。第二次大戦中は大日本言論報国会会長。昭和18年文化勲章をうけるが,21年返上した。昭和32年11月2日死去。94歳。肥後(熊本県)出身。同志社英学校中退。本名は猪一郎。著作に「近世日本国民史」など。
【格言など】人生は一種の苦役なり。ただ不愉快に服役すると欣然として服役するとの相違あるのみ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「徳富蘇峰」の解説

徳富蘇峰
とくとみそほう

1863〜1957
明治〜昭和期の評論家・新聞人
本名は猪一郎。蘆花の兄。肥後(熊本県)の生まれ。初め板垣退助らと交わり自由民権運動に参加。1886年『将来之日本』を携えて上京し,新聞人として活躍。翌 '87年民友社を設立し『国民之友』を創刊,'90年には『国民新聞』を発刊した。平民主義を唱えたが,日清戦争を境にして国家主義に転じ,のち桂太郎に接近し皇室中心主義を主張した。1942年,大日本言論報国会会長に就任した。'43年文化勲章受章。主著に『近世日本国民史』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「徳富蘇峰」の解説

徳富 蘇峰 (とくとみ そほう)

生年月日:1863年1月25日
明治時代-昭和時代のジャーナリスト;評論家
1957年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徳富蘇峰の言及

【京城日報】より

…《大韓毎日申報(しんぽう)》をはじめとして,抗日の論陣を張る朝鮮語新聞に対し,同時期に創刊された英字新聞《ソウル・プレスThe Seoul Press》とともに日本統監府の強力な言論機関であった。10年,朝鮮総督府設置とともに,国民新聞社の徳富蘇峰を監督に迎えてその指導をうけ,また《大韓毎日申報》を買収,改題して同年10月ハングル新聞《毎日申報》を創刊(1924年分離独立,38年《毎日新報》と改題)。《朝鮮日日新聞》と並ぶ二大新聞として,日本支配の終焉まで続いた。…

【国民新聞】より

…1890年2月1日,徳富蘇峰によって創刊された日刊新聞。雑誌《国民之友》を発行し,大成功をおさめていた蘇峰が〈新聞其物をして社会の生活と一致合体せしむる〉を基本方針として発刊した。…

【国民之友】より

徳富蘇峰によって設立された民友社から,蘇峰みずから主筆となって1887年(明治20)に発刊された総合雑誌。誌名はアメリカの《ネーション》誌からとられた。…

【ジャーナリズム】より

…こののち,明治20年代の大日本帝国憲法体制の創成期にこれらの政治党派とは距離をおいた言論人独自の文筆活動がさかんとなった。この時期の思想界の花形だった徳富蘇峰は民友社をひきいて雑誌《国民之友》と《国民新聞》などにより思想の近代化を唱え,彼のいう〈平民主義〉に多くの青年たちを共鳴させた。また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。…

【紳士】より

…文明開化を象徴して,シルクハットないし山高帽にフロックコート,モーニングが典型的な紳士の図で,その戯画的表現が鹿鳴館の夜会に集う紳士淑女である。これに対し徳富蘇峰のように,イギリスの地方郷紳を模して〈田舎紳士〉を主張する試みもみられたが,その担い手である豪農層が寄生地主化し,進取性を失うにつれてその存在意義も失われていった。ジェントルマン【寺尾 方孝】。…

【大日本言論報国会】より

…情報局の指導監督のもとに結成運営されたもので,最初〈大日本思想報国会〉として発起され,のち〈大日本言論報国会〉となり,1942年12月23日に創立された。会長徳富蘇峰(猪一郎),専務理事鹿子木(かのこぎ)員信,理事津久井竜雄ら27名。会員は〈日本評論家協会〉(1940創立,代表者津久井竜雄)を中核に,一般評論家をも糾合し,43年7月現在で総数917名に達していた。…

【マッツィーニ】より

… マッツィーニはリソルジメントの最大の推進者であったが,現実の結果は彼の期待に反するものとなり,失意のうちに生涯を閉じた。徳富蘇峰は明治期の書《吉田松陰》でマッツィーニを松陰の精神と横井小楠の理想を併せ備えた人物として紹介し,また石川三四郎はマルクスとは別の労働運動観に立つマッツィーニの思想に関心を示した。リソルジメント【北原 敦】。…

【民友社】より

…1887年1月,徳富蘇峰が熊本の大江義塾の関係者を中心に東京赤坂に設立した思想結社および出版社。同年2月総合雑誌《国民之友》(社名は本誌に由来する)を創刊,同誌は藩閥政治と貴族的な欧化政策に反対して平民主義を掲げ,徳富らがその担い手と期待する〈田舎紳士〉をはじめとする青年知識層の支持を得て,明治中期の言論思想界に多大の影響を与えた。…

【明治維新】より

…民権運動が目標とした国会開設の原点は五ヵ条の誓文に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の民友社の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。…

【リソルジメント】より

…この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891‐92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。【北原 敦】。…

※「徳富蘇峰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android