仁科氏(読み)にしなうじ

改訂新版 世界大百科事典 「仁科氏」の意味・わかりやすい解説

仁科氏 (にしなうじ)

平安末期から戦国時代にかけて,信濃国安曇郡仁科御厨(現,大町市)を中心とした地域を根拠とした武士一族出自平氏とするのが一般的であるが,ほかにもいくつかの説がある。信濃土着の時期については不明であるが,治承・寿永の内乱に際して,太郎盛弘,次郎盛家らが木曾義仲の軍に従っており,この時期には信濃に土着していたことが知れる。盛家の子盛遠は後鳥羽院に仕え,1221年(承久3)承久の乱に京方として参戦し戦死した。一方,ほぼ同時期に鎌倉幕府御家人の仁科氏もいた。その後,断片的に南北朝~戦国時代まで仁科氏の存在を知ることができる。天文年間(1532-55)の武田信玄の信濃国攻略により,森城(大町市)にあった仁科盛政は信玄の支配下に入った。永禄年間(1558-70)の川中島の戦で盛政は戦死したため,信玄の子盛信(信盛)が仁科氏を継いだ。盛信は天正年中(1573-92)伊那高遠城へ移ったが,1582年(天正10)織田信長に攻められて討死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁科氏」の意味・わかりやすい解説

仁科氏
にしなうじ

信濃国安曇郡仁科庄より起る。『仁科岩城系図』によると,桓武平氏で,高望王の孫貞盛の子兼忠 (『尊卑分脈』では,兼忠は貞盛の甥にあたる) の子孫である。7代後の盛遠は,後鳥羽院北面の武士となり,承久の乱で討死にした。南北朝時代に南朝方として活躍している仁科姓武士が『太平記』に散見する。天文 12 (1543) 年盛政は武田氏にくだり,永禄4 (61) 年,川中島で討死にした。

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