宮本村(読み)みやもとむら

日本歴史地名大系 「宮本村」の解説

宮本村
みやもとむら

[現在地名]大原町宮本

吉野よしの川を挟んで下庄しもしよう村の東に位置。北東から流れる東町あずまち(宮本川)は当村で吉野川に合流する。同川沿いの因幡往来は村南東部の釜坂かまさか峠を越えて播磨国に出る。「東作誌」によれば明暦三年(一六五七)下庄村より分村した。同書に讃甘さのも庄の内とあり、当地も中世の讃甘庄内であったと考えられ、村内の荒牧あらまき大明神(現讃甘神社)は同庄の総社であったという。村名はこの「宮のもと」に由来するとある。讃甘庄については鎌倉期末の足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に庄名がみえる。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]佐倉市宮本・大作おおさく二丁目

木野子きのこ村の東、高崎たかさき川の支流南部なんぶ川左岸に位置。佐倉道が通り、成田、滑川なめがわ(現下総町)方面からと芝山しばやま(現芝山町)高松たかまつ(現富里町)方面からの道が当地で合流した。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、以後幕末まで同藩領。慶長一五年(一六一〇)から佐倉藩領であったともいうが(「宮本村誌」宮本区有文書)、不詳。元禄郷帳では高六六石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高九〇石余、新田改出高三石余(うち内検地出高二三石余)、夫役永二〇〇文余・栗代永六八文・山銭鐚二貫四七二文。享和期(一八〇一―〇四)の佐倉七牧付村々高帳などによれば柳沢やなぎさわ牧の牧付村で、勤高六六石余。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]大町市大字やしろ 宮本

現大町市の最南部で、東に中山なかやま山地を背負い西に高瀬たかせ川とその沖積地の水田を望む高瀬川河岸段丘上に位置する。北隣の現閏田うるうだ曾根原そねばら集落とともに、古代に仁科にしなの地名の発祥となった所である。

宮本の名は、村居の東上方に鎮座する仁科神明宮の神前の村の意である。村名の文献上の初見は、文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「弐百八拾七石六斗七升弐合 仁科ノ宮本村 此内拾石ハ霊松寺領、拾石ハ成就院領、拾五石ハ神明領」と記されていることである。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]大屋町宮本

糸原いとわら村の南東、明延あけのべ川の流域にある。当地で南谷みなみだに道から分れ、カカナベ峠越で建屋たきのや谷のもり(現養父町)に至る道が通る。集落はこの道沿いに発達、東方のカカナベ峠近くに枝郷の岩井いわいがある。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入った小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)出石藩主小出吉英の和泉岸和田藩主就任に伴って岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩主に再封になると同藩領に復した。


宮本村
みやのもとむら

[現在地名]智頭町大背おおせ

水島みずしま村より北西方向に入る谷の北側、土師はじ川に合流する宮本川の下流域に集落が発達する。宮ノ本とも記す。「因幡志」は民家のある字として土居どい岡崎おかざき片山谷かたやまだになどをあげる。周辺諸村の惣産土神那岐なぎ大明神(現那岐神社)があり、村名も同大明神に由来するという。拝領高は一一一石余。馬淵氏の給地があった(給人所付帳)。元禄一〇年(一六九七)の土免状(黒岩家文書)によれば、村高は一三〇石余、物成は七三石余、ほかに藪運上銀四匁二分が課されていた。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]富浦町宮本

深名ふかな村の北東、岡本おかもと川流域に位置する。「里見九代記」によると里見氏時代、宮本城が築かれていた。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高二一八石余、うち田方一四三石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳でも同高で、里見氏一族の藤井美濃御前知行。里見氏改易後は幕府領となり、寛永一五年(一六三八)譜代大名三枝守昌に与えられ、同一七年一部が守昌次男の諏訪頼増に分知された(「寛政重修諸家譜」など)正保郷帳では田高一五九石余・畑高七五石余、三枝氏(四石余)・諏訪氏(二三〇石余)の相給。ほかに四石余の不動社領があった。明暦元年(一六五五)三枝氏領は諏訪氏領に組入れられ、以後は多田良たたら村と同様の変遷をたどる。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]津久見市中央町ちゆうおうまち・宮本町・上宮本町かみみやもとまち津久見浦つくみうら 本通ほんどおり・角崎通つのざきどおり本町通ほんまちどおり駅前通えきまえどおり・姥目町うばめまち塩屋町しおやまち田町たまち・宮本町

岩屋いわや村の西、津久見川の下流左岸に位置し、北は警固屋けごや村。江戸時代は佐伯藩領津久見浦組を構成する一村であった。正保郷帳では赤河内あかがわち村のうちと推定される。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では津久見村枝郷とされる。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]太子町宮本

常全じようぜん村の南に位置し、西は林田はやしだ川で限られる。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に宮本村とみえ、当村の高二〇二石余が木下家定に与えられている。慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)によると、同一三年の高三〇五石余。江戸時代の領主の変遷は阿曾あそ村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)によると高二八九石余。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]八日市場市宮本

椿つばき村の西に位置する。集落は宮本と長瀬ながせとに分れていた。天正一九年(一五九一)検地帳があったとされるが(海上町史)、現在は不明。慶長一三年(一六〇八)知行宛行状(古文書)に宮本郷とみえ、郷内一五〇石が旗本荻野領となっている。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)によると、当村の監物が一本を負担している。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では高一五〇石、旗本荻野領で生尾組に属した。村高・領主とも幕末まで変わらない。明暦二年(一六五六)椿村と宮本村・生尾おいお村の間で入会地の境界をめぐり争論が起きている。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]東庄町宮本・宮野台みやのだい

今郡いまごおり村の南、青馬おおま村の東に位置する。こおり郷のうち。古くは青馬村と一村で、地名はとう大神の鎮座地であることに由来するという(香取郡誌)。天正一九年(一五九一)八月三日の検地帳(飯田家文書)に「香取郡東之庄宮本村」とみえ、反別一二町四反余・高九五石余で、名請人二〇、うち屋敷持一一。同年一一月宮本郷内一〇石が惣社大明神(現東大神)の社領になっているが(「徳川家康朱印状」同文書)、社領は今郡村内にあった(慶安元年「徳川家光朱印状」同文書)


宮本村
みやもとむら

[現在地名]竜洋町宮本

天竜川下流東岸に位置し、南は高木たかぎ村、西は同川。古くは百々どど村と称した(元禄郷帳など)。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に高木百々とみえ高五七石余。慶長(一五九六―一六一五)初年高木村から分村したと伝える(磐田郡誌)。正保郷帳に百々村とみえ、幕府領。田五四石余・畑三七石余、常光寺領一石余。元禄郷帳に宮本村とあり浜松藩領。享保郷村高帳・旧高旧領取調帳ともに旗本鍋島領。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]四賀村会田あいだ 宮本

松本藩領会田組三四ヵ村の一で、のち幕府領。会田町あいだまち村の西に接する。会田神明宮が鎮座することから、村の名が生じた。

天正検地の村高は六二石一斗八升五合、慶安検地時の村高は八七石四斗六升二合となっている。享保九年(一七二四)当時の石高は一七一石二斗三升、うち田八六石三斗二升二合、畑三七石三斗九升八合である。

村の西端に会田神明宮がある。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]谷田部町上河原崎かみかわらざき 宮本

中北なかきた村の南、西谷田にしやた川東岸の微高台地に所在。江戸時代には旗本菅谷氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には、菅谷平八郎知行地で村高九五・六九六石。


宮本村
みやもとむら

[現在地名]大野町宮迫みやざこ 宮本

宮迫村の北、あかね川流域にある。村内浅草あさくさ山にある浅草八幡社が「豊後国志」に宮迫村の社としてみえるので、江戸時代後期までは同村のうちに含まれていたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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