伊射奈岐神社(読み)いざなぎじんじや

日本歴史地名大系 「伊射奈岐神社」の解説

伊射奈岐神社
いざなぎじんじや

[現在地名]吹田市山田東二丁目

旧郷社。「延喜式」神名帳の島下しましも郡の条に「伊射奈岐神社二座並大。月次新嘗」が載るが、当社はこの一座と伝える。ほかの一座は佐井寺さいでら一丁目(旧山田佐井寺村)鎮座の同名神社という。当地の伊射奈岐神社は、社伝によると雄略天皇の代に伊勢神宮の斎宮である皇女倭姫の示教により、その臣である岡本豊足彦が五柱の皇大神を奉祀すべき地を諸国に求めて、ついにこの地に祀られたという。初めは姫宮ひめみや社と称していたが、仁寿二年(八五二)に小川谷から高庭山に移して、五社ごしやの宮と改称したといわれている(大阪府史蹟名勝天然記念物)

伊射奈岐神社
いざなぎじんじや

[現在地名]天理市柳本町小字天神山

天神てんじん山に鎮座。伊邪那岐いざなぎ神・菅原道真を祀る。旧村社。「延喜式」神名帳城上しきじよう郡の「伊射奈岐神社」に比定される。楊本やなぎもと天神・楊本天満宮と称し、もとは南東山手の山田やまだ垣内にあったと伝え、祭礼には山田の優先権を認めているが、「大乗院寺社雑事記」文明一七年(一四八五)九月二六日条の楊本荘の記事に「一六条七里卅六丁之内(中略)此内楊本庄家屋敷、天神等在之」とあり、すでに現在地に鎮座し、楊本の総鎮守とされていた。寛正二年(一四六一)四月六日には興福寺大乗院主尋尊が、天文二二年(一五五三)二月二八日には三条西公条が参詣(大乗院寺社雑事記・吉野詣記)。同二四年八月二九日、後奈良天皇は綸旨(社蔵)を下し、これまで八月に行った神事を九月と定め、柳原淳光をして皇室再興を祈らせている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報