吹田市(読み)スイタシ

デジタル大辞泉 「吹田市」の意味・読み・例文・類語

すいた‐し【吹田市】

吹田

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「吹田市」の解説

吹田市
すいたし

面積:三六・六〇平方キロ

府の中央北部に位置し、北は箕面みのお市、東は茨木いばらき市・摂津市、南はほぼ安威あい川・神崎川を隔てて大阪市東淀川区・淀川区、西は豊中市に接する。市域の中部・北部は千里丘陵上に立地、南部は安威川・神崎川・淀川のつくる沖積平野で部分的に低湿地もみられる。千里丘陵から安威川・神崎川に向かって、東から山田やまだ川・糸田いとだ川・たか川が流入、これら小河川によって丘陵地帯も複雑に浸食されている。なお現在は南高浜みなみたかはま町で安威川・神崎川は合流しているが、これは明治一一年(一八七八)の流路付替えの結果で、それ以前の神崎川は江口えぐち(現東淀川区)から北流し別府べふ(現摂津市)で安威川に合していた。市名は古代から水陸交通の要衝であった吹田に由来。

〔原始〕

千里丘陵の南東部、沖積平野に向かって傾斜する緩やかな丘陵斜面に、旧石器時代から縄文時代にかけての各種石器が出土した吉志部きしべ遺跡がある。旧石器の素材となる剥片の製作技術、あるいは細部調整の特徴などは、国府型石器文化よりも後出のものと推定されている。また縄文時代草創期の石器では数点の有舌尖頭器が採集されている。ほかに旧石器が検出されている遺跡に垂水たるみ遺跡がある。弥生時代の代表的遺跡は垂水遺跡で、後期の竪穴住居跡などと、前期から後期に及ぶ土器・石器が検出されている。弥生式土器には、摂津地方の土器以外に、河内や近江地方の特色をもつものが認められ、広い交流がうかがわれる。なお同遺跡の周辺には弥生後期の幾つかの遺跡があるが、それらのなかで同遺跡が中核的な位置を占めたものと推定されている。古墳には新芦屋しんあしや古墳などがあり、同時代の集落跡として垂水南たるみみなみ遺跡がある。同遺跡は神崎川北岸に立地、竪穴住居跡などの遺構や、土師器須恵器および農耕具をはじめとする多量の木製品・石製模造品などが検出された。千里丘陵南東部では、全体で五十数基の須恵器窯跡が確認されているが、大部分が六世紀中頃から後半にかけて操業されたもので、七世紀以降に営まれた窯は数基を数えるのみである。そして八世紀初頭には操業を終えている。一方千里丘陵の北西には、豊中市桜井谷さくらいだに窯跡群があるが、この群の盛行する時期が五世紀末から六世紀前半代であることから、六世紀の中頃に千里丘陵の西から東へ須恵器工人の移動が行われたのではないかと推定されている。千里丘陵南東末端部の岸部北きしべきた五丁目には聖武朝難波なにわ(現東区)の屋根瓦を焼いた官営瓦窯七尾ななお瓦窯跡があり、同じく丘陵南東部の紫金しきん山南斜面には、平安宮造営に際して大量の瓦を供給した吉志部神社瓦窯跡群がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吹田市」の意味・わかりやすい解説

吹田〔市〕
すいた

大阪府北部,神崎川右岸から千里丘陵に広がる市。 1940年吹田町と千里村,岸部村,豊津村の3村が合体して市制。北部は小河川により浸食された千里丘陵,南部は安威川,神崎川の沖積地。中心市街地の吹田は,中世には神崎川の河港,近世には亀岡街道,伊丹街道の分岐点にあたる交通の要地として発達。 1877年東海道本線の開通により,ビールの醸造工場が立地,工業都市として発展。 1923年には大規模な吹田操車場ができた。化学,金属,製紙などの工場が立地。 1970年北部の丘陵部に千里ニュータウンが完成し,その東隣で日本で初めての国際博覧会が開かれた (→日本万国博覧会 ) 。会場跡には記念公園がつくられ,園内には日本庭園や国立民族学博物館日本民藝館などがある。市域を名神高速道路が通り,北東部の吹田ジャンクションで中国自動車道,近畿自動車道が分岐。 JR東海道本線,阪急電鉄千里線が通る。面積 36.09km2。人口 38万5567(2020)。

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