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伊東義祐 いとう よしすけ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊東義祐 いとう-よしすけ

1512-1585 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)9年生まれ。天文(てんぶん)5年家督をつぎ,日向(ひゅうが)(宮崎県)都於郡(とのこおり)の領主。永禄(えいろく)11年島津氏の飫肥(おび)城をおとし,伊東氏の最盛期をきずく。天正(てんしょう)5年島津義久に敗れて流浪し,13年8月5日堺で死去。74歳。初名は祐清。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

伊東義祐

没年:天正13.8.5(1585.8.29)
生年:永正9(1512)
日向(宮崎県)の戦国大名。尹祐の子。初名祐清。六郎五郎。修理大夫,大膳大夫。伊東氏は日向都於郡(西都市)の在地領主で,天文2(1533)年に兄祐充が死去したのち国人たちの協力で叔父祐武を討ち,翌年2月には同地をほぼ掌握した。同5年反党の弟祐吉が死に,名実ともに家を継いだ。将軍足利義晴の諱の1字を受け義祐と改名。同10年島津氏に占拠されていた飫肥地方(日南市)の奪回に着手し,永禄5(1562)年に諸県を,同11年には飫肥を回復して日南に覇を唱えた。この間天文15年には朝廷に100貫という巨額の献金をなし,九州の大名では異例の従三位に叙され,三位入道と号した。修理大夫という官途も,格は島津・大友両氏に並ぶものである。しかし元亀3(1572)年には勢いを盛り返した島津義久の反攻にあい,木崎原の戦に敗れて領国は衰運,解体に向かう。天正5(1577)年,島津軍の鋭鋒の前に本拠を捨てて豊後に逃亡,大友義鎮(宗麟)を頼った。翌年11月の耳川の敗戦で領国の回復も絶望的となり,子祐兵と共に伊予に流寓,晩年は西国各地をあちこちと漂泊し,最期は和泉堺の浜辺で行き倒れたという。官位獲得による隆盛をみながら,その後まもなく没落への道をたどったという点で,大内義隆と対比されよう。

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の伊東義祐の言及

【伊東氏】より

…伊豆国伊東の豪族。工藤氏族。平安末期,伊東祐親(すけちか)が平家方として活躍。一族は各地に繁衍。著名なものに江戸時代の日向国飫肥(おび)藩主がある。1197年(建久8)の《日向国図田帳》に宇佐宮領県庄,富田庄,田島庄,諸県庄約750丁の地頭として故勲藤原衛門尉とあるのは工藤祐経の遺子伊東祐時のことと思われる。その後祐光―祐宗―貞祐―祐持と相伝,祐持は1335年(建武2)足利尊氏に属して児湯郡都於郡(とのこおり)300丁の地を与えられ,日向国に下向,同地を拠点として室町末期まで同国内に勢威をはった。…

【伊東祐兵】より

…豊臣期の日向飫肥(おび)城主。伊東義祐の第2子。初名祐隆,六郎五郎,のち民部大輔,従五位下豊後守。…

【日向国】より

…しかしかねてより飫肥をうかがっていた伊東氏と衝突し,同地方は以来久しく両氏が争奪をくりかえした。永正・大永年間(1504‐28)には北郷氏と伊東氏との間で三俣院の攻防戦があり,1532年(天文1)北郷忠相は飫肥の島津忠朝(忠廉の子)とともに,伊東義祐を高城に破っている。しかし義祐は肝付氏の支族で真幸院(まさきいん)を本拠とする北原氏の内訌につけいり,真幸院に進出。…

※「伊東義祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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