朝日日本歴史人物事典 「伊東義祐」の解説
伊東義祐
生年:永正9(1512)
日向(宮崎県)の戦国大名。尹祐の子。初名祐清。六郎五郎。修理大夫,大膳大夫。伊東氏は日向都於郡(西都市)の在地領主で,天文2(1533)年に兄祐充が死去したのち国人たちの協力で叔父祐武を討ち,翌年2月には同地をほぼ掌握した。同5年反党の弟祐吉が死に,名実ともに家を継いだ。将軍足利義晴の諱の1字を受け義祐と改名。同10年島津氏に占拠されていた飫肥地方(日南市)の奪回に着手し,永禄5(1562)年に諸県を,同11年には飫肥を回復して日南に覇を唱えた。この間天文15年には朝廷に100貫という巨額の献金をなし,九州の大名では異例の従三位に叙され,三位入道と号した。修理大夫という官途も,格は島津・大友両氏に並ぶものである。しかし元亀3(1572)年には勢いを盛り返した島津義久の反攻にあい,木崎原の戦に敗れて領国は衰運,解体に向かう。天正5(1577)年,島津軍の鋭鋒の前に本拠を捨てて豊後に逃亡,大友義鎮(宗麟)を頼った。翌年11月の耳川の敗戦で領国の回復も絶望的となり,子祐兵と共に伊予に流寓,晩年は西国各地をあちこちと漂泊し,最期は和泉堺の浜辺で行き倒れたという。官位獲得による隆盛をみながら,その後まもなく没落への道をたどったという点で,大内義隆と対比されよう。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報