壬申約条(読み)じんしんやくじょう

改訂新版 世界大百科事典 「壬申約条」の意味・わかりやすい解説

壬申約条 (じんしんやくじょう)

1512年(永正9・朝鮮中宗7)に対馬の宗氏らを対象にして朝鮮から与えられた通交貿易の条件。1510年(永正7)に三浦(さんぽ)の乱といわれる朝鮮の乃而浦(ないじほ),富山浦,塩浦の3港に居留していた日本人の暴動事件が起こったため,対馬と朝鮮との通交関係はいっさい断絶した。宗氏は足利将軍大内氏にたよって朝鮮と講和折衝を行い,1512年にようやく通交を再開できたが,そのとき朝鮮側から与えられた通交の条件が壬申約条である。永正条約とよぶ人もいるが,条約というよび方は適当ではない。内容は,(1)三浦に日本人が居留することを認めない,(2)宗氏の歳遣船は半減して25隻とする,(3)宗氏の歳賜米・豆は100石に限る,(4)特送船の渡航は許さない,(5)受職人,受図書人は再審査して数を減らす,(6)往来の港は乃而浦1港に限る,というものであった。三浦の乱以前の通交条件をさらに厳しくしたもので,以後宗氏は条件の緩和を朝鮮に求めつづけた。
日朝貿易
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「壬申約条」の意味・わかりやすい解説

壬申約条
じんしんやくじょう

1512年(永正9、朝鮮・中宗7)壬申の年、日本と朝鮮との間に成立した通交関係の条約。1510年、三浦(さんぽ)(乃而浦(だいじほ)、釜山浦(ふざんぽ)、塩浦(えんぽ))に住んでいた日本人(恒居倭(こうきょわ))が、朝鮮側の貿易統制と居住権圧迫に対し、対馬(つしま)島主宗盛順(そうもりより)の援助を得て暴動(三浦の乱)を起こして以来、日本と朝鮮の関係は断絶していた。そのため日本国王(足利(あしかが)将軍)使として僧弸中(ほうちゅう)が折衝し、この条約が結ばれた。内容は、(1)宗氏が朝鮮に出す歳遣船(さいけんせん)を25隻に半減し、(2)朝鮮が宗氏に与えていた歳賜米(さいしまい)・大豆(だいず)を100石に半減し、(3)宗氏の子、代官、受図書人(朝鮮側から交通の証憑(しょうひょう)を受けた者)・受職人(官職を与えられた者)などに与えていた米・大豆の賜給を廃止し、(4)三浦における日本人の居住を許さず、(5)往来は乃而浦に限定する、などであった。

[北島万次]

『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 上』(1969・吉川弘文館)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「壬申約条」の解説

壬申約条
じんしんやくじょう

永正(えいしょう)条約とも。1512年(永正9)李氏朝鮮と対馬島主(守護)宗盛順の間に結ばれた条約。10年の三浦(さんぽ)の乱で対馬・朝鮮関係が断絶したため,宗氏は日本国王使弸中(ほうちゅう)や大内氏の働きかけをえて,癸亥(きがい)約条を改訂した本約条を成立させた。内容は,(1)三浦開港を停止し,薺浦(せいほ)のみ開港。日本人の居住は認めない,(2)宗氏の歳遣船は25隻に半減,(3)宗氏への歳賜米・豆は100石に半減,(4)宗氏の特送船は停止,(5)受職倭人(じゅしょくわじん)・受図書人(じゅとしょにん)は再審査し,数を減らすなど。宗氏は制限の緩和を再三要求するが,44年(天文13)の甲辰蛇梁(こうしんだりょう)の変による通交断絶まで維持される。変後,丁未(ていび)約条が成立。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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