朝日日本歴史人物事典 「伊達慶邦」の解説
伊達慶邦
生年:文政8.9.6(1825.10.17)
幕末の仙台藩主。号は楽山。父は同藩主斉義。天保9(1838)年将軍徳川家慶の慶の字を下賜され,慶寿を名乗ったのち,12年襲封し14年慶邦と改名した。初め関白近衛忠煕の養女を妻に迎えたが,死別後は水戸の徳川斉昭の娘を新たに迎えた。天災,兵制改革,軍艦製造,幕命による蝦夷地警備などの財政支出に苦しみ,2度参府延期を願い出ている。幕末の政局に際し,藩内は尊攘派,佐幕派に分裂,対立し完全に収拾できないまま戊辰戦争を迎えた。朝廷の会津征討の命により出兵したものの白石での代表者会議で会津救済と征討軍解散の嘆願を決定し,それが拒絶されたため奥羽越列藩同盟を結び新政府軍と交戦した。明治1(1868)年9月降伏,翌年赦免された。<参考文献>『楽山公略伝』(仙台叢書12巻)
(長井純市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報