伴野荘(読み)ともののしょう

百科事典マイペディア 「伴野荘」の意味・わかりやすい解説

伴野荘【ともののしょう】

現在の長野県佐久(さく)市野沢を中心とし,同県南佐久郡全域に郷村が散在した荘園。12世紀後半後白河院領として立荘され,後鳥羽院領を経て1302年に室町院領となったのち,持明院統(じみょういんとう)に伝領された。領家職は藤原基家,地頭職は小笠原氏(伴野氏)であった。鎌倉後期伴野氏の没落により地頭職は北条氏に移った。1330年領家職が大徳寺に寄進され,地頭職も鎌倉幕府滅亡により後醍醐天皇から大徳寺へ寄進された。1335年の年貢注文によると24ヵ郷を数え,大徳寺への年貢はおよそ7600貫文。1279年の冬,一遍が当地内の伴野市を訪れている。なお伊那谷南部,現在の長野県豊丘(とよおか)村伴野を中心とする地域にも同名の荘園があった。

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改訂新版 世界大百科事典 「伴野荘」の意味・わかりやすい解説

伴野荘 (ともののしょう)

現長野県佐久市野沢を中心とした地域にあった荘園。鎌倉時代初頭,院領であったことが《吾妻鏡》により知られる。この当時の領家職は藤原基家,地頭職は小笠原氏(伴野氏)であった。鎌倉後期伴野氏の没落により地頭職は北条氏の手に移った。1330年(元徳2)領家職が大徳寺へ寄進され,さらに,鎌倉幕府の滅亡により,北条氏の有していた地頭職も,後醍醐天皇から大徳寺へ寄進された。35年(建武2)の《大徳寺文書》によると,大徳寺への年貢はおよそ8000貫文あった。同時期の伴野荘の領域は,現佐久市中南部,南佐久郡佐久穂町,小海町南牧村の千曲川西岸に広がっていた。《一遍聖絵》によると,1279年(弘安2)の冬,一遍がこの地を訪れている。なお伊那谷南部の天竜川東岸,現長野県下伊那郡豊丘村伴野を中心とした地にも,同名の荘園があった。
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