春日神社(読み)かすがじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「春日神社」の意味・読み・例文・類語

かすが‐じんじゃ【春日神社】

[二] 福岡県春日市春日にある神社。旧県社。祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)ほか三柱。一月一四日夜の婿押若水祭(春日のむこおし)で有名。

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デジタル大辞泉 「春日神社」の意味・読み・例文・類語

かすが‐じんじゃ【春日神社】

春日大社たいしゃの旧称。

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日本歴史地名大系 「春日神社」の解説

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]櫛引町黒川

黒川くろかわ集落の東端、出羽山地先端部に位置する。祭神は健御雷命・伊波比主命・天津児屋根命・比売神の四柱。旧郷社。古くは新山しんざん明神と称したが、延享五年(一七四八)頃を境に四所明神あるいは春日四所明神とよばれるようになり(社蔵文書)、近代に入り現社名に改めた。草創については明らかとする史料を欠くが、中世大泉おおいずみ庄地頭で大宝寺だいほうじ(現鶴岡市)城主武藤氏に崇敬され、天正年中(一五七三―九二)武藤義氏は社殿を再建、社領を寄進したと伝える。また武藤氏は同家の家紋六ッ目結の紋所の使用を許したといい、旧社殿の蟇股(室町期のものとされる)などにも同紋が施される。武藤氏に替わって庄内を領した最上義光は慶長一六年(一六一一)都合高五六石余の社領を安堵している。うち三三石余が祭田、残りは社僧法光院と神主大夫および上の能大夫・下の能大夫で配分されている(延宝九年庄内寺社領高付帳)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]上野市西山

深山ふかやまにあり、当社縁起は久安五年(一一四九)奈良より勧請と伝える。承安二年(一一七二)には当地辺の新居にいのべ庄を奈良春日社領と称する文書があり、寛元二年(一二四四)には当地西山にしやま庄が奈良春日社領となっている(→西山村。当社蔵文亀二年(一五〇二)棟札写には「時の聖」として補陀落ふだらく(跡地は現西高倉)楽音がくおん(跡地は現坂之下)の住僧の名がみえる。「伊水温故」は、奥の谷山たにやまにあった木尾きお権現を「ノ社」と書き、「山上ニ社有、牛頭天王ノ垂跡、或ハ権現、当社ノ使獣ハ狼也、春日明神ハ寛弘元年ニ南京ヨリ勧請、当村ノ氏社一山ノ内」と記し、木尾権現は深山の春日社に合祀されている。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]川俣町 宮前

川俣盆地の北部、布引ぬのびき山の丘陵南端部に位置し、川俣市街が一望できる。川俣春日神社と通称され、旧郷社。祭神は春日四所明神、相殿は別宮八幡大神・天照皇大神で、境内社として養蚕こがい社・機織はたおり社・疱瘡ほうそう神社・青麻あおそ社を祀る。建久元年(一一九〇)源頼朝が奈良興福寺大乗院に小手保おでほ庄を寄進しており(三箇院家抄)、そのゆかりで奈良春日社の分霊が勧請されたものであろう。小手庄二六郷の総社とされた。(「小手風土記」川俣町史資料)。中世は武士層に信仰され、北畠顕家や伊達氏累代当主の奉納と伝える宝物があり、明応四年(一四九五)伊達尚宗は流鏑馬を再興したという。蒲生氏領になると、社領没収になり衰えたが(射夷坂古史「郷社春日神社縁起」所収)、江戸時代に入り、絹織物の隆盛とともに再興されたのであろう。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]伊賀町川東

川東かわひがし集落の北部、宮川べりに鎮座。祭神は武甕槌命など六柱。境内社に壬生みぶ神社がある。旧郷社。「伊水温故」などは神護景雲二年(七六八)常陸国鹿島かしま社より大和春日神社へ勧請の途次この地で奉斎、その由縁によって創建したと伝える。「三国地志」は「准后伊賀記」や蔵玉和歌集の神護景雲説を引用しながらも、保延年中(一一三五―四一)三笠みかさ(現奈良市)より勧請するとの伝もあげ断言をさけている。天正九年(一五八一)織田信長の伊賀攻略の時、各宮座の籠所などは焼失したが、社殿・拝殿は残ったという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]大分市勢家町四丁目

江戸時代の勢家せいけ町の北西部、豊前道の北側に鎮座。かつて当地は海岸に近く、海岸一帯は春日浦、また古くは神宮寺じんぐうじ浦とよばれていた。祭神は武甕槌命・経津主命・天津児屋根命・姫大神。旧県社。貞観二年(八六〇)豊後国司藤原世数が南都の宗祠を国府に移祀したとも(豊後国志)、天平年間(七二九―七四九)国分寺建立のため下向した石川年足が大和三笠みかさ山の四所大神を勧請したとも伝える(春日神社略記)

「雉城雑誌」によると大友氏入国後は同氏に崇敬され、仁治三年(一二四二)大友親秀は社殿などを修営して笠和かさわ郷の宗廟とし、八〇貫の社領を寄進したという。「今、当町ノ田疇ノ名ニ呼処ノ角カ田、瑞籬田、菖蒲田等皆社田ノ遺址也」とあり、菖蒲田しようぶだは字名として残る。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]山添村大字春日

春日中央に鎮座。祭神は天児屋根あめのこやね命・建御雷たけみかずち神・経津主ふつぬし神・比売ひめ神。旧村社。「大和志」に「春日村十三村民相共預祭祀」と記し、「延喜式」神名帳の添上そえかみ郡に記載の「春日神社」にあてているが、当地は古来、山辺やまべ郡に属した。鎮座地が名張なばり川の支流とりしり川上流であるため、口碑では名張(現三重県名張市)または薦生こもう(現同上)から渡御したと伝え、春日大明神が常陸国鹿島かしま(現茨城県鹿嶋市)から南都三笠みかさ山へ垂迹の時、途中で立寄った所という信仰も根強い。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]和泉市春木町

春木はるき町の南西部に鎮座し、古くから松尾まつお谷一帯の総社とされてきた。祭神は武甕槌命・経都主命・天児屋根命・比売大神。旧村社。当社は本来、韓国連の祖神を祀る物部布留もののべふる神社と称されたが、称徳天皇の世、鹿島姫神が常陸から奈良に遷座した時に当地に立寄ったので、在住の藤原氏はこれを祀って春日社となし、その後主客が転倒して春日社が本社となり物部社は摂社になったという(大阪府史蹟名勝天然記念物)。鎌倉時代の松尾谷には春木庄があり東隣の池田いけだ谷には池田庄があった。この両庄は奈良春日社領であったことから同社の祭神が勧請されたようで、池田庄に含まれていた現三林みばやし町にも春日神社(旧郷社で祭神は当社と同じ)がある。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]田原本町大字千代

千代ちしろ八条はつちように鎮座し、武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・ひめ大神を祀る。旧村社。創祀は不詳であるが、鎮座地が奈良興福寺領八条はちじよう荘の内であり(興福寺雑役免帳)、当地に奈良春日社東塔供料田があった(三箇院家抄)ことに関係すると思われる。境内末社の千代神社八千千姫やちちひめ命を祀り、「延喜式」神名帳城下しぎげ郡「千代神社」に比定する説がある。「大和志」に千代神社は「在八条村今称八幡与安部田村共預祭祀、式載在城下郡、正保三年以此地隷本郡」とみえ、本来当地は城下郡に属したが、正保三年(一六四六)十市とおいち郡になったものとされている。八条は城下・十市両郡の境界にあたり、中世の史料でも八条荘は両郡にかかっていた。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]鶴岡市神明町

県道鶴岡―羽黒線南側の太春たいしゆん院南隣にある。祭神は健甕槌命・経主命・天児屋根命・比神ほか五柱。旧郷社。創建の時期は不明。近世には四所ししよ明神・四所春日明神などとよばれ、二百人にひやくにん町東方、天神てんじん町西方に位置し、上下両山王社(現日枝神社)とともに鶴ヶ岡城下総鎮守の一。永禄五年(一五六二)九月の銘のある懸仏二面が当社に納められており、一面は奥村上野守源義正、もう一面には頼賀の名が記されている。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]八幡西区藤田一丁目

山王さんのう山にある。武甕槌命・経津主命・天津児屋根命・比売神・黒田孝高霊神・黒田長政霊神などを祀る。旧県社。近世には藤田ふじた町・かみみよう鳴水なるみず村・秋月屋敷あきづきやしきなどの産土神(「続風土記附録」など)。社伝によると、神武天皇が豊前国から筑前国おか水門へ行幸した際、天種子命に勅して天津児屋根命を祀ったのが草創とも、花尾はなお城の城主麻生氏の祖が一族(藤原氏)の氏神を当地に勧請したのが始まりともいう(同書)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]加茂町大野

大野おおの山の北東麓、木津きづ川に面して鎮座する。祭神は天忍穂耳あまのおしほみみ命・天大日霊貴あめのおおひるめむち命・多久幡千千姫たくはたちぢひめ命。旧村社。現在の鎮座地は勝手かつて神社の社地で、古くは現在地の東方、木津川南岸の一丁久保いつちようくぼの地にあったが、木津川の洪水により流失し遷座したと伝える。当社は「延喜式」神名帳の相楽さがなか郡に「岡田国ヲカタノクニノ神社大、月次、新嘗」とある社に比定される。現在岡田国おかだくに神社を称する神社は京都府木津町木津にあるが、近世には天神社といわれた社で、古く岡田郷ともよばれたこの地に比定するのが一般的である。「山城名跡巡行志」も「在大野村今称春日」と記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]関市南春日町

南の長良川鉄道と北の平和通とに挟まれ、杉木立の広い社叢に囲まれて鎮座する旧郷社。祭神は武甕槌神・経津主命・天児屋根命・比売神。明治二年(一八六九)の関村明細帳は春日大明神とし、境内東西四五間・南北八二間、別当寺は大雄だいゆう寺。鍛冶刀匠の諸系図(美濃刀大鑑)によれば、鎌倉後期に兼永が奈良春日社を勧請したと伝える。社蔵の棟札表書には「奉鎮座春日大神 郷内安全祈修 正応元戊子年 南都ヨリ奉迎也、別当」、裏書には「承元元年其政事始、文永七年地定」とあることから、承元元年(一二〇七)に祭祀が始まり、正応元年(一二八八)に勧請、壮大な神殿を創建して、関鍛冶の守護神としたとされる。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]高槻市成合北の町

檜尾ひお川東岸の鷹取たかとり山麓にある。祭神は天児屋根命・経津主命・天照大神。旧村社。社伝によると、成合なりあい庄を開発した岩・日下部両氏が、兵庫ひようご(現神戸市)に漂着した神体を奉じて現社域の奥山鷹取山瑞光石に鎮座したが、ある夜山麓に忽然と樹木を生じ(不植森)、神託があって現在地に遷座したものという。成合庄は摂関家領安満あま庄の北端にもあたり、安満庄の外域を囲む形で春日神社の勧請がみられるところから、摂関家領庄園鎮護の意味と、檜尾川水系の鎮守を兼ねて勧請されたものと考えられる。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]徳島市眉山町 大滝山

大滝おおたき山東麓にある。祭神は武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神。旧県社。奈良春日社領富田とみだ庄内に分祀された春日祠であったとされる。蜂須賀家政による徳島城下建設にあたり、天正一四年(一五八六)名東みようどう田宮たみや村から山東麓に移され、城下総鎮守とされたと伝え、同村勝福しようふく寺も同じ所に移されて春日寺と改称し別当寺になったという(徳島市史)。しかし「阿波志」はかつては名西みようざい入田にゆうた村にあり、蜂須賀氏入部後現在地に移されたとしている。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]名張市矢川

矢川の小豆尾やがわのあずきおにあり、祭神は天児屋根命ほか四神。創建等はつまびらかでないが、天喜四年(一〇五六)二月二三日の散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)・延久六年(一〇七四)七月六日の当麻三子所領売券(同文書)・応徳元年(一〇八四)三月二二日の官宣旨案(東大寺文書)などの矢川村の四至を記したなかに「南限加賀明神」とあるのが当社で、古くはかだか明神と称されていた。矢川(箭川)の「鹿高山」(長久二年三月五日「藤原実遠公験紛失状解案」同文書)に鎮座する明神の意であろう。貞観一五年(八七三)九月二七日に正六位上から従五位下に進階せられた「鹿高神」は(三代実録)、この加賀明神であったと考えられる。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]西脇市小坂町

杉原すぎはら川西岸にある。祭神は天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売大神。寛永一四年(一六三七)の寺社奉行観音寺良誉覚(小坂町有文書)によると行基の創祀と伝え、また京都吉田家の帳面に井蔵いくら(井鞍)明神と記載されているのが当社という。小坂こさか井堰の岩に金福輪螺鞍が掛かっていたのを社頭に奉納したために井鞍明神とよび、岩を鞍懸くらかけ岩と称したという。のちにこの鞍は奈良興福寺に寄進されたと伝える。中世には富田とみた庄の鎮守であったが、天正四年(一五七六)兵火により社殿を焼失、翌五年九月本社殿を再建(棟札)、寛永六年には姫路藩主本多忠政の家臣服部彦左衛門の援助で、拝殿・鐘楼・坊舎を復興したという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]福島区玉川二丁目

祭神は天児屋根命・天照皇大神・宇賀御魂神。江戸時代の野田のだ村の藤家の氏神で、草創は藤原氏の分流藤原藤足がその領地に春日明神を勧請したものというが(「藤伝記」藤家蔵)、真偽は不詳。

「摂津名所図会」には「当所藤により藤原の祖神を祭るならんか」とあり、当社はかつて「吉野の桜に野田の藤」(摂津名所図会大成)と称された藤の名所であった。貞治三年(一三六四)には足利義詮が住吉詣の途次来訪して「いにしへのゆかりを今も紫のふしなミかゝる野田の玉川」と詠んだというが(藤伝記)、義詮の紀行という「住吉詣」には「野田の玉河と云所あり、このほとりに藤の花さきみだれたり」と記し「紫の雲とやいはむ藤のはな野にも山にもはいそかゝれる」とある。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]坂井町下兵庫

下兵庫しもひようご集落の南端にある。祭神は天児屋根あめのこやね命を主神とし、誉田別ほんだわけ尊・天照あまてらす皇大神・杼樟日くすひ命・奥津比古おくつひこ命・伊弉冊いざなみ命を合祀する。旧郷社。「坂井郡誌」によれば、河口かわぐち荘十郷に奈良の春日社より勧請された一〇社中の一つで、寛弘八年(一〇一一)のことという。その後の変遷は天正年中(一五七三―九二)の一揆による兵火のために記録などを焼失しつまびらかでないが、福井県三国町の滝谷たきだん寺に大永二年(一五二二)の朝倉孝景安堵状があり、文中に「兵庫郷春日宮百弐拾間四方任先規令奇附之状不可免状仍如件」と記されている。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]萩市大字堀内

萩城三の丸跡の東南に鎮座。祭神は武甕槌命・天児屋根命・経津主命・姫大神・磐筒之男命。旧県社。

創建の由来について「八江萩名所図画」は、

<資料は省略されています>

と記す。また江向えむかい遷宮以前は現在椿東ちんとうにある竜蔵りゆうぞう寺の鎮守であった(萩市誌)とも、土原ひじわらに鎮座していた(山口県風土誌)ともいう。「大日本地名辞書」は社司吉屋氏の大般若経奥書に、建久三年(一一九二)七月日として「此経従吉敷庄奉稟渡当庄春日宮安置」とあると記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]海南市大野中

西流する日方ひかた川が向きを北に変える付近の北東、春日山・三上みかみ山などとよばれる小高い丘に鎮座する。祭神天押帯日子あめおしたらしひこ命。旧郷社。社伝によれば聖武天皇以来の勅願所で、桓武天皇のとき正一位大春日大神の勅額を受け、神領九町六反の寄進を受けたという。中世には大野おおの郷をはじめ三上庄二五ヵ村の総鎮守であったともいわれる。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]上富田町市ノ瀬 後代

富田川北岸の竜松りゆうしよう山麓にある。祭神は建甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・比売ひめ神・天押雲あめのおしくも命。旧村社。創建については明らかでないが、宝暦一四年(一七六四)の覚書(興禅寺蔵)には「奈良勧請之由承伝候、尤勧請之時節相知レ不申候得共往古よ里在所之者産宮ニ祭来ル、天文年号祝言有之也」とある。寛政四年(一七九二)の田辺領神社書上帳(田所文書)によれば、第一殿建前、前五尺・横四尺五寸(武甕槌命)、第二殿建前、前九尺八寸・横五尺三寸(斎主命・天児屋根命・姫太神三座)と、建前一尺五寸四方の若宮(天押雲命)、建前二尺二寸四方の王子権現、表口四間半・裏行三間の拝殿、建前一間半四方の護摩堂があった。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]上越市春日

春日山東麓に鎮座。祭神天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神。旧村社。社伝によると、天徳二年(九五八)奈良春日社をはちみね(春日山)の山上に勧請、のち守護上杉氏の春日山かすがやま築城により現在地に遷座したという。また永徳年間(一三八一―八四)守護代長尾高景が現在地に遷座し、鬼門鎮護の神社としたともいう。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]大宇陀町大字春日字阿紀山

中世の秋山あきやま城跡西麓に鎮座。祭神武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・ひめ大神。旧村社。大和国宇陀郡は応永一二年(一四〇五)足利義満により奈良春日社に寄進されたが、当社地も中世の春日荘であり(「宇陀郡田地帳案」春日大社文書)、奈良春日社を勧請したものであろう。社前に神楽石と称する巨石があり、「和州旧跡幽考」に「秋宮。もしは明山とて宇陀の町の東に城跡あり。其所に神楽石といふあり。明、秋よみ同じ。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]芦原町中番・下番

中番なかばん下番しもばんの境にあり、背後(北方)竹田たけだ川が流れる。古くは式内社井口いくち神社がここにあったという。この旧社名が示すように、社地付近は著名な十郷じゆうごう用水の水利上重要な地であり、神官の大連家は代々用水の管理にも深く関与していた。祭神は天津児屋根あまつこやね命・武甕豆知たけみかずち命・経津主ふつぬし命・ひめ太神。境内社に白山神社・神明神社がある。旧郷社。中世河口かわぐち荘内の一〇郷にはそれぞれ春日神社が勧請され、十郷十社とよばれたが、当社はその総社(十郷の父神とも称する)であるという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]坂井町東荒井

荒井あらい集落の東方に鎮座。祭神は天津児屋根あまつこやね命・火産霊ほのむすび神。旧村社。社伝によれば、一条天皇の時、当地方は用水なく渇水することが多く、当国押領使斎藤民部少輔伊伝は奈良春日社に雨乞をし、その効験を得た。それに対し神饌一〇〇石料を献じたが、その後、九頭竜くずりゆう川筋の赤岩あかいわ(現福井県丸岡町)に一頭の鹿が立ち、御幣を咬み西に向かって走った。里人は春日神の神慮として鹿の走った跡を開き用水とした。これが十郷じゆうごう用水で、以来渇水することはなくなったという。鹿が途中で休息した地一〇ヵ所に寛弘八年(一〇一一)奈良春日社の分霊を勧請し、祀ったのが河口かわぐち荘十郷の春日神社諸社で、当社はその一つと伝える。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]橿原市鳥屋町小字御城山

鳥屋とりや町南西、船付山ふなつきやま集落の西に鎮座。もと倭彦やまとひこ身狭桃花鳥坂むさのつきさか墓の上にあったが、明治二〇年(一八八七)の陵墓治定により、現社地にあった八王子社の社地に移して八王子社を境内社とした。祭神は石椋孫いわくらひこ命・天児屋根あめのこやね命・倭彦命。旧村社。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]篠山市黒岡

春之木はるのきつぼに鎮座。祭神は健甕槌命・経津主命・天児屋命など。旧県社。日置ひおき庄内黒岡くろおか村の鎮守で笹山に祀られていたが、慶長一四年(一六〇九)の篠山城下の建設に伴い、同城下の北に移された。同一六年社殿の建立がなり、盛大な祭礼を行った。篠山城主代々の祈願所で、元和元年(一六一五)藤井松平忠国が拝殿を寄進し、境内に愛宕社の祭祀があり、承応元年(一六五二)には形原松平康信により仏殿、宝永三年(一七〇六)形原松平信庸により神前手洗いの寄進があった。また慶安二年(一六四九)篠山藩主藤井松平忠国が転封に際して奉納した狩野尚信「黒神馬絵馬」や、貞享四年(一六八七)松平家家臣の堀和景広が寄進した大森彦七絵馬がある。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]日の出町平井

宮本みやもとにある。旧村社。現主祭神は武甕槌命。創建は古く景行天皇の代、日本武尊の東征を祝い、勅旨を得て造営されたと伝え、代々日奉氏により奉仕されてきたという(明治一〇年「社格願明細書上」青木家文書)。しかし明治二年(一八六九)の取極帳(同文書)には勧請の年代は不詳とあって、定かでない。「風土記稿」に延徳五年(明応二年、一四九三)・天文一五年(一五四六)・元亀三年(一五七二)の棟札写がみえるので、明応二年まではさかのぼって考えられよう。社号は棟札写に千石せんごく大明神とあるが、「武蔵名勝図会」では千石明神、「風土記稿」では春日社とする。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]延岡市恒富町

愛宕あたご山の北麓丘陵地に鎮座。祭神は天児屋根命・武甕槌命・斎主命・姫大神など九神。旧郷社。江戸時代末まで春日大明神と称した。養老五年(七二一)の創建という(日向地誌)。治承二年(一一七八)土持相模守田部栄綱が領内守護神として秀恵を社僧に命じて陽宝山春日寺を建立し別当寺としたという(宮崎県神社誌)。「延陵旧記」に春日大明神の別当寺として春日寺がみえ、神主は甲斐長門守。江戸時代を通じて春日寺が管掌していた。同寺は延岡藩主有馬直純から寺領三〇石を、有馬清純から五石を寄進されていた(「御先代除高覚」九津見家文書)。三浦氏時代の春日寺領は高一五石(うち一二石三斗余は社領惣成、二石六斗余屋敷高)であった(正徳二年「御家中分限帳」同文書)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]高浜市高浜町 春日

衣浦きぬうら湾に臨む台地の西端に鎮座。創立年代は不詳であるが、初め天津児屋根命は大明神山だいみようじんやまに、武甕槌命は鹿島かしまに、経津主命は古宮こぐうに、姫大神は古春日こかすがに鎮座されていたのを古春日の地に合祀し春日大明神と称し、下って永正年中(一五〇四―二一)鎮座の地を改めて現在地に移し、地名を春日と称し、前の鎮座の地を古春日と改めたという。社地も広く、高浜郷の総氏神として崇敬されたと伝える。安永五年(一七七六)田畑合わせて一町七反二五歩、高一九石九斗余の神田があった。

拝殿内に天保一四年(一八四三)の高浜湊および各神社鳥瞰の図を描いた大絵馬が懸かる。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]上越市本町一丁目

祭神天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神。旧村社。春日にある春日神社の分霊を福島ふくしま城経営時に同城下に勧請したのに始まり、慶長一八年(一六一三)高田城下春日町に遷座したもの。同年三月付の風間民部亮(春日の春日神社神官)宛成瀬豊前・松山左近連署状(「頸城郡誌稿」所収)によると社地は南北二〇間・東西三〇間で除地とされた。福島城下時代および元禄(一六八八―一七〇四)の初めまでは風間氏が当社を支配したが、元禄三年宮内みやうち(現新井市)斐太ひだ神社神官倉科氏の支配となり、明治初年には春日町宝蔵ほうぞう院春山氏が社人となった(頸城郡誌稿)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]西吉野村大字黒渕

丹生にう川左岸に鎮座。祭神は武雷たけいかずち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・ひめ大神。旧村社。元禄六年(一六九三)の竹村代官宛書上(堀家文書)に明神社とみえ、黒渕くろぶち常覚じようかく寺建立の際に祀られたといい、黒渕・湯塩ゆしおの氏神とされる。建治四年(一二七八)書写の大般若経を所蔵し、奥書に「建治四年戊寅弐月十九日書写畢生年十六僧道海一校了」と記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]桜井市戒重

戒重かいじゆう城跡南に鎮座。祭神は天児屋根あめのこやね命・天太玉あめのふとたま命・武甕槌たけみかづち命・比売ひめ神。旧村社。当地は長田ながた荘・他田おさだ荘に属したので、もとは他田宮と称していたと伝え、現奈良県山添村勝原かつはら八柱やはしら神社蔵の大永四年(一五二四)銘の湯釜には「戒重庄 長田宮」と刻する。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]浜松市笠井町

笠井かさい町の南西部に鎮座。旧郷社。祭神は武甕槌之男神・経津主命・天児屋根命・比売大神。文明一四年(一四八二)に将軍足利義尚が創建したと伝えられ、同年三月二〇日付で当社の森林に牛馬を放つことを禁じた足利義尚禁制写(春日神社文書、以下同文書は省略)がある。天文一〇年(一五四一)今川義元が社殿を造営し、社領を寄進したという(同年三月一〇日今川義元判物写)。山下嘉三氏所蔵の天正五年(一五七七)の棟札には若林大明神とみえる。慶長六年(一六〇一)に伊奈忠次によって社領五石が寄進され(伊奈忠次判物写)、慶安元年(一六四八)には将軍徳川家光から社領五石が与えられた(徳川家光朱印状写)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]桜井市脇本

三輪みわ山南麓、旧初瀬はせ街道に臨んだ森に鎮座。旧村社。祭神は天児屋根あめのこやね命・太玉ふとだま命・天鈿女あめのうずめ命で、本殿には木造神像三体を安置。由緒はつまびらかでないが、祭神からすると斎部氏関係の神社とも推定される。天児屋根命は鎮座地脇本わきもとが奈良興福寺の荘園となってからの勧請であろう。本殿(県指定文化財)は室町初期様式の三間社春日造・檜皮葺で、慶長八年(一六〇三)の棟木銘があり、奈良春日社若宮の社殿を移建したと記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]菟田野町大字見田

見田みた集落北部の水分みくまり山に鎮座。天水分あめのみくまり神・国水分くにのみくまり神・天児屋根あめのこやね命・若一にやくいち王子を祀る。旧村社。慶安元年(一六四八)の棟札、寛文六年(一六六六)・延宝五年(一六七七)の石灯籠には「水分宮」とみえ、春日社の初見は享保八年(一七二三)の棟札である。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]西吉野村大字向加名生

向加名生むかいあのう集落背後の山上に鎮座。祭神は武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・ひめ大神。旧村社。「大和志」には春日神祠として「在向加名生村与江出滝屋那瀬共祭典」と記す。本殿は一間社春日造・檜皮葺で桃山期の手法がみられ、国指定重要文化財

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]柳井市大字柳井 白潟

白潟しらかたの柳井湾を望む台地にある。祭神は天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比大神。旧村社。

「玖珂郡志」によれば、往古、海上に矛が一本浮び来たのを、里人が霊夢によって大和国南都春日大明神であることを知り、これを斎き祀ったのに始まるという。また同書は「以延雑俎」を引いて「当社ハ正応三年建立。白潟村ハ南都ノ神領也シニ、百姓共年貢等難渋セシニ依テ、社人腹ヲ立、御神ヲ鉾ニ付、御領地エ行玉ヘトテ、海ヘ流セシニ、不思議ヤ此所ヘ漂着シ玉ヒケリ」と記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]根尾村神所

折山おりやまに鎮座。祭神武甕槌神・経津主神・天津児屋根命・姫神。旧郷社。明治初年の神社明細帳(県立歴史資料館蔵)によると、開化天皇の孫の神大根命が根尾谷を開いたので、延喜年間(九〇一―二三)社を建てて祀ったが、元亀年間(一五七〇―七三)暴風雨で壊れたため根尾右京が再建、次いで元禄一三年(一七〇〇)復興した。社の後ろを三笠みかさ山といい、社の前の杉林にある池を猿沢さるさわの池というと記している。「根尾根源記」は延喜三年奈良天皇の皇子が川口平馬之丞に案内されて来て春日神社の分社をここに建てたといい、皇子の子孫が根尾殿であると伝える。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]金津町沢

さわ指中ゆびなかの中間の山裾に鎮座する。祭神は天児屋根あめのこやね命。旧村社。社伝によれば、当社は「延喜式」神名帳に載る坂井さかい保曾呂伎ほそろき神社であり、細呂宜ほそろぎ郷の惣社であったという。和銅七年(七一四)泰澄がこの地に巡錫、天児屋根命の神像を刻んで祀ったのに始まり、白河天皇の勅使中納言時実が奈良興福寺の伊予法眼を通して神田を寄進、また中世には朝倉氏の崇敬を受けたという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]桜井市上之宮

上之宮うえのみや集落西端、上宮じようぐう寺跡北辺に鎮座。上宮寺鎮守であったと思われ、武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・ひめ大神・品陀和気ほんだわけ命を祀る。旧村社。古く「磐船明神」と称し、社殿はなく橿の大木を神体としていた。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]葉山村永野 春日山

新荘しんじよう川右岸、総合グラウンドの南隣に鎮座、境内付近は津野氏祈願寺であった繁国はんこく寺の跡地である。祭神は建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売大神。旧郷社。

津野氏が奈良の三笠山より勧請したと伝え、天正一六年(一五八八)の津野惣郷神社帳に「本社五尺四方、横殿三間」とある。津野半山地検帳には大歳田を含めて二反余の神田がみえる。津野氏時代、大祭には乙女神楽・流鏑馬などが催され盛大であった。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]田尻町吉見

武甕槌命・斎主神・天児屋根命・大日貴命を祀る旧村社。宝亀年間(七七〇―七八〇)吉見よしみの地を開発したという吉見小佐治が、同氏の祖神とする春日神を勧請し祀ったのにはじまるという(大阪府全志)。中世、吉見庄内に奈良春日社の散在神人が多くいたことは建長七年(一二五五)一一月日の春日社神人等申状(福智院家古文書)で知られるが、当社はそれら神人の当地における拠り所であったと思われる。江戸時代の初め頃、当社の再建が自らの力では困難であったらしく、領主旗本岡部数馬にたのみ、元禄四年(一六九一)に成就したという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]三国町新保

新保しんぼの南部に鎮座する。祭神はひめ大神・天児屋根あめのこやね命・武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命。旧郷社。社伝によれば、もとは現鎮座地よりも北西方三里浜さんりばまの近くにあったが、延喜年間(九〇一―九二三)現在地に遷座、その後、天慶(九三八―九四七)の頃、旧地にあった式内社片岸かたきし神社を当社に移し、合祀したと伝える。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]都祁村大字針

はり集落の中央に鎮座し、祭神は天児屋根あめのこやね命。創祀は享保一九年(一七三四)の針の観音寺縁起(山辺郡誌)に延暦年間(七八二―八〇六)に奈良春日社第四殿天児屋根命を勧請したものと伝える。針荘が春日社荘園であったため、その支配の手段として勧請されたものと考えられる。社前には天正六年(一五七八)の春日型灯籠がある。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]明浜町狩浜

狩浜かりはま浦にあり、祭神は武甕槌神・斎主神・天児屋根命・姫大神・天種子命。旧郷社。

明治四二年(一九〇九)境外末社であった客人まろうど神社・須賀すが神社・住吉すみよし神社・皇祖こうそ神社・恵美須えびす神社・建速たけはや神社・金刀比羅ことひら神社を合祀したので、祭神は前記のほかに九柱が加わっている。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]日原町日原

みやたににある。祭神は経津主神・武甕槌神・天児屋根神・姫大神。旧郷社。昔から大槻の傍らに祠があったという。寛永三年(一六二六)三好藤左衛門らが社殿を建立している(「棟札写」島根県庁郷土資料)。寛文一二年(一六七二)三好九郎左衛門が本殿を修築したときに春日大明神を神体とし、明和九年(一七七二)春日造の神殿を建立した(「春日社棟梁記并銘」日原町立歴史民俗資料館蔵)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]麻生町青沼

青沼あおぬまの東にあり、祭神は武甕槌命。旧村社。社伝では大同二年(八〇七)の創立で、中世はこの地の武将相賀氏が相賀おうが郷の総鎮守社にしたという。もと当社をかみの宮、摂社をしもの宮、寺院を神宮寺と称していたが、摂社は合併され、神宮寺は廃寺となった。寛文二年(一六六二)改築の棟札を有した社殿は、幕末の水戸天狗党の騒乱で焼失し、現社殿はその後の再建。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]藍住町矢上

矢上やかみ地区の北西字春日にある。旧村社。主祭神は武甕槌命。創建年代未詳。建仁三年(一二〇三)奈良春日社に寄進されて成立した矢上庄(矢上保)に鎮守として勧請されたとみられる。江戸時代には矢上・乙瀬おとぜ奥野おくの荒成分三ヵ村の鎮守。当社に伝わる伝説によれば、奈良春日社から使いの神鹿が毎年訪れていたが、ある年野犬に襲われ、使いを果した後で死んでしまった。哀れに思った社人が当社の近くに鹿の墓を建てたという。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]田川市宮尾町

宮尾みやお村の東方に鎮座する。祭神は武甕槌命・豊櫛弓削魂産霊神・天日鷲翔矢命・天児屋根命など。旧郷社。平安時代末期に摂関家領として成立したと考えられる弓削田ゆげた庄の庄鎮守とされ、奈良春日社の分霊を勧請し、春日四所明神と称されたという。宝暦四年(一七五四)の宮尾弓削田村宮帳に「春日大明神」は「宮尾弓削田村、上西弓削田村、下西弓削田村、河原弓削田村、見立村、後藤寺町、右六ケ村の産神」と記されていたとされる。この六ヵ村の地域には当初それぞれの集団が奉祀してきた地主神(河原弓削田村の地神社、西弓削田村の許斐権現社、後藤寺町の十二祖権現社など)があり、その上に弓削田庄支配の段階で新たに一〇の貴船社が加わり、これらを統括するかたちで庄鎮守春日大明神が位置するという(以上「田川市史」「豊前村誌」など)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]奈良市北椿尾町

北椿尾きたつばおの集落中央の小高い丘にある。祭神は天児屋根あめのこやね命。旧村社。「大乗院寺社雑事記」明応二年(一四九三)一二月二三日条に「春比歟菩提山近辺所々放火事在之、山村持分水船茶屋二間・椿尾持分下宮拝殿焼之」とみえる「下宮」のことと考えられ、鎮座地付近に椿尾氏の椿尾下つばおしも城があったと推定される。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]中原区宮内

地方道川崎―府中線の北側、多摩川寄りにある。「風土記稿」は宮内みやうち村の東方、高瀬たかせとよばれる微高地にあると記す。祭神は天児屋命。承安元年(一一七一)の武蔵国稲毛本庄検注目録(県史一)にみえる「春日新宮」に比定される。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]八木町字八木 内山

八木のしろ山北東麓に鎮座する。祭神経津主命・健御雷命・天児屋根命・狭依毘売命。旧村社。社伝では承平五年(九三五)藤原重房が大和の春日社の神を勧請して創建したといい、古くは近郷諸村の氏神として崇敬されたとも伝える。天明二年(一七八二)に整理された神殿内屋札列記(同社蔵)には明徳五年(一三九四)三月軒切、弘治三年(一五五七)八月大風雨で倒木、元亀二年(一五七一)大修理と記される。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]斑鳩町大字目安字宮ノ本

大和川堤防沿いの高所に鎮座。祭神天児屋根あめのこやね命。旧村社。由緒はつまびらかでないが、奈良県都祁村はりの観音寺所蔵大般若経奥書によれば、この経は清原俊益らが願主となり、朝円大徳・浄心禅尼の菩提のため、竜田たつた目安めやす里春日大明神竹林殿に施入したものである。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]豊郷町四十九院

祭神は天津児屋根あまつこやね命。創建は、天平三年(七三一)行基が犬上いぬかみ郡に四十九院を建立するとき伽藍鎮護の神として天津児屋根命を院内庭園の築山に勧請したのに始まるという。康安元年(一三六一)後光厳天皇の行在所となったとき、「春日大明神」の宸翰を与えられた。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]朝日町三中 八ッ沼

八沼やつぬま館跡の西、春日沼のほとりにある。社伝によると、永正元年(一五〇四)八沼館主原美濃守が家臣阿部将監を奈良春日大社に派遣し、分霊を勧請したという。「宗古録」には春日明神の前に神池(春日沼)があり、広さ三〇〇間ほどで、深さを知る者はいない。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]大間町奥戸 焼畑

奥戸おこつぺの東にある。祭神は天児屋根命で、旧村社。明治初年まで観音堂と称したが、廃仏毀釈により観音像を田名部たなぶ(現むつ市)円通えんつう寺に移し、現社名に改めたという(新撰陸奥国誌)

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]御嵩町中 北屋敷

なか地区のほぼ中央、旧中山道(現国道二一号)の約一〇〇メートル北方に位置する。祭神は春日大神、旧郷社。創建の時期は不明。嘉禎四年(一二三八)七月二二日の官宣旨(当社蔵、県指定重要文化財)により可児郡中村なかむら郷が諸役を停止のうえ、国司から当社に寄進された。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]北有馬町田平名

鼻崎はなさきに鎮座。旧村社。天児屋根命・武甕槌命・経津主命・太玉命を祭神とし、藤原純友の子孫経澄が一族の守護として春日明神を居城の東に祀ったという。この縁起は中世に有馬氏がその系譜を藤原純友に求めようとしたことに由来すると考えられる。はじめ田平たびら名の春日谷にあったが、寛永一四年(一六三七)の島原の乱により焼失、同一五年に現在地に社殿を再建、北有馬村の産土神として信仰された。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]川西市久代三丁目

祭神は天児屋根命・天津児屋根命。旧村社。北東の低地にあったが、江戸時代に移したと伝える。本殿(寛政三年修理)安土桃山時代の余風を残す江戸時代初期の建築とみられ(川西市史)、県指定文化財。元禄五年(一六九二)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社とみえ、除地は東西九〇間・南北六〇間で、天文三年(一五三四)の勧請とし、神主は宮座大老(三二人)より順に勤め祭祀をつかさどると記す。

春日神社
かすがじんじや

[現在地名]吉井町田原免

田原たばるの北部に鎮座。祭神は天照大神・斎主命・天児屋根命・武雷尊。旧村社。古くは谷内たにうちに鎮座、長享三年(一四八九)宝殿を再建したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「春日神社」の解説

春日神社
かすがじんじゃ

奈良市春日野町にある神社。藤原氏の氏神で,祭神は武甕槌命 (たけみかずちのみこと) ・経津主命 (ふつぬしのみこと) ・天児屋根命 (あめのこやねのみこと) ・比売 (ひめ) 神の4柱
もと中臣 (なかとみ) 氏の祖先神であったが,平安時代以降藤原氏の栄進とともに社格も上がり,社領も増加。平安中期から藤原氏の氏寺興福寺の鎮守とされた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「春日神社」の解説

春日神社

岐阜県関市にある神社。1288年創建と伝わる。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)。関鍛冶の守護神として信仰を集める。毎年4月に行われる神事芸能「童子夜行」で使用される能装束や能狂言面の多くが国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

防府市歴史用語集 「春日神社」の解説

春日神社

 平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめにかけて建てられたと考えられている神社です。重源[ちょうげん]が阿弥陀寺[あみだじ]の住職とかねて、春日神社の住職になっていたこともあるようです。また、現在では「庭神事[にわしんじ]」という行事が行われています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

事典 日本の地域遺産 「春日神社」の解説

春日神社

(岐阜県大垣市本今町201)
大垣市景観遺産」指定の地域遺産。
入り口に高さ9.6mの一の鳥居が建ち、二の鳥居につづく参道の桜並木で知られる

春日神社

(東京都練馬区春日町3-2)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

春日神社

(山形県鶴岡市黒川字宮の下)
鶴岡市ふるさと景観資源」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「春日神社」の解説

春日神社

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

春日神社

(兵庫県神戸市灘区)
灘百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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