佐久間 左馬太
サクマ サマタ
明治期の陸軍大将,伯爵 台湾総督。
- 生年
- 天保15年10月10日(1844年)
- 没年
- 大正4(1915)年8月5日
- 出生地
- 長門国萩(山口県萩市)
- 本名
- 佐久間 直矩
- 旧姓(旧名)
- 岡村
- 経歴
- 大村益次郎に西洋兵術を学ぶ。慶応2年第2次長州征伐では長州軍大隊長として功をあげた。戊辰戦争には東北各地に転戦、のち陸軍に入り、明治5年陸軍大尉、西海鎮台付となり、以後佐賀、台湾、西南の諸戦乱に従軍。19年12月中将に進み、20年第2師団長、27年日清戦争では第2軍に属して威海衛作戦に当った。その作戦後占領地総督となり、のち近衛師団長、中部都督となり、31年大将に昇進。35年予備役となったが、37年日露戦争には現役に復帰、東京衛戌総督を経て、39年〜大正4年台湾総督を務めた。この間明治40年軍功により伯爵となる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
Sponserd by 
佐久間左馬太
没年:大正4.8.5(1915)
生年:弘化1.10.10(1844.11.19)
明治期の陸軍軍人。萩(長州)藩士岡村孫七の次男。佐久間竹之丞の養子。奇兵隊から身を起こし,大村益次郎に西洋兵術を学ぶ。慶応2(1866)年第2回長州征討の際,長州軍の大隊長を務めた。明治5(1872)年陸軍大尉に任ぜられ,7年の台湾出兵に加わる。日清戦争では仙台の第2師団長を務め威海衛を攻略。遼東半島の占領地総督などを経て31年大将に進んだ。37年東京衛戍総督。39年から大正4(1915)年まで台湾総督の地位にあり,現地住民の抵抗を抑えて,交通,通信,教育機関などの整備を推し進めた。少将時代は一升酒を飲み,明治天皇から「一升少将と呼ぼう」といわれ,「陛下畏れ入りますが一生(一升)少将では困ります,せめて中将位までは…」と答えたという。40年に伯爵。<参考文献>松下芳男『日本軍閥の興亡』,台湾救済団編『佐久間左馬太』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
Sponserd by 
佐久間左馬太 さくま-さまた
1844-1915 幕末-大正時代の武士,軍人。
天保(てんぽう)15年10月10日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。佐久間家の養子となる。大村益次郎(ますじろう)に西洋兵術をまなび,戊辰(ぼしん)戦争,台湾出兵,西南戦争で軍功をたてた。日清(にっしん)戦争では威海衛作戦に参加。明治31年陸軍大将。39年台湾総督。大正4年8月5日死去。72歳。本姓は岡村。名は直矩。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 