1874年(明治7)台湾原住民による日本人漂流民虐待の責任追及を理由に日本政府が台湾に出兵した事件。「征台の役」「台湾事件」などともいう。1871年琉球(りゅうきゅう)八重山(やえやま)島民が台湾南東岸に漂着、うち54名が牡丹社(ぼたんしゃ)原住民に殺害され、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良(つなよし)は政府に責任追及の出兵を建議した。73年には備中(びっちゅう)国(岡山県)柏島村の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受けた。こうして政府内外に台湾征討の声が高まった。同年特命全権大使として渡清(としん)した外務卿副島種臣(そえじまたねおみ)は随員柳原前光(やなぎはらさきみつ)にこの件を問いたださせたが、清国外務当局は台湾原住民は「化外(かがい)」であり、清国の統治の外にあると述べて責任を回避した。同年秋の朝鮮使節派遣をめぐる政府分裂(いわゆる明治六年の政変)、翌74年1月の岩倉具視(ともみ)暗殺未遂事件、2月の佐賀の乱と政情不穏が高まると、政府は国内の不満を外にそらすねらいもあって台湾征討に踏み切り、4月参議大隈重信(おおくましげのぶ)を台湾蕃地(ばんち)事務局長官に、陸軍中将西郷従道(さいごうつぐみち)を台湾蕃地事務都督に任命し出兵準備に入った。ところが駐日イギリス公使、アメリカ公使が極東の平和を乱すおそれがあると出兵反対の意向を示したので政府は中止を決めた。しかし、西郷は兵3000を率いて独断で出兵を強行し、政府はやむなく追認した。日本軍は5月22日台湾社寮(しゃりょう)港に全軍集結して行動を開始し、6月3日原住民地区をほぼ制圧した。戦死者12名、しかし風土病マラリアのため561名が病死した。清国は日本の行動に抗議し撤兵を要求した。そこで8月参議大久保利通(としみち)が全権弁理大臣に任命され、渡清して総理衙門(がもん)大臣恭親王(きょうしんのう)と交渉に入った。会談は難航したが、駐清イギリス公使ウェードの仲介で、10月31日「日清両国互換条款」が調印され、清国が日本の出兵を認め遭難民に見舞金(撫恤(ぶじゅつ)金)を支払うことを条件に日本は撤兵に同意することになって事件は落着した。かつ清国が日本軍の行動を承認したので八重山島民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に確認された形となった。
[毛利敏彦]
『戴天昭著『台湾国際政治史研究』(1971・法政大学出版局)』
1874年(明治7)清国台湾に日本が出兵した事件。開国後最初の海外派兵。征台の役,台湾事件ともいう。1871年琉球宮古島,八重山島の漁船が台湾に漂着し,乗組員多数が原住民に殺害され,さらに73年には岡山県の船員が略奪されるという事件が起こった。このため早くから征韓論を唱えて大陸進出をめざしていた外務卿副島種臣は,これを台湾征討の理由とし,あわせて琉球の帰属問題を国際的に明確化しようとし,前厦門(アモイ)駐在のアメリカ領事ル・ジャンドル(李仙得)を顧問に雇い,その助言によって出兵を計画した。73年6月副島が特命全権大使として日清条約批准書交換のため清に赴いたとき,副使柳原前光をして台湾漂流民の問題を交渉させたが,清国側は,琉球は日本領ではなく,また台湾の原住民は法律の外にあるとし,その処置を拒んだ。その後,副島は征韓論の分裂によって下野したが,内務卿大久保利通らは,当時高まっていた士族の不満をそらすため,征韓論に代わって台湾出兵計画をすすめた。西郷隆盛の弟従道を台湾蕃地事務都督に任じ,74年4月に出兵しようとしたとき,イギリス,アメリカが強く反対し,政府内でも木戸孝允ら長州派が外征反対を唱えたため,いったん征討中止を決定した。しかし,兵3600を率いて長崎に到着していた西郷従道は,政府の中止命令に応ぜず独断で出兵を実行した。大久保は全権弁理大臣となり,フランス人ボアソナードとル・ジャンドルを顧問として北京に赴き,清国と台湾問題を交渉した。駐清イギリス公使ウェードの斡旋と李鴻章の宥和(ゆうわ)論によって10月31日に和議が成立し,日清両国間互換条款および互換憑単に調印した。その内容は,(1)清朝は日本の出兵を〈義挙〉と認め,(2)被害民の撫恤(ぶじゆつ)銀と日本の施設費として,償金50万両(日本貨約67万1650円)を日本に支払い,(3)今後,原住民取締りにつき保障する,というものであった。この和議の成立によって,日本軍は同年12月に撤退した。
執筆者:中村 尚美
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征台の役とも。明治国家最初の海外派兵。当時は蕃地処分と称した。台湾での琉球島民殺害について清国から生蕃(せいばん)の地は化外との言質を得て,1874年(明治7)2月問罪出兵を閣議決定。英・米などが自国人船舶参加拒絶という中立政策をとったため中止を決めるが,蕃地事務都督西郷従道(つぐみち)以下,兵員3658人は長崎を進発,5月台湾南部の社寮(しゃりょう)に上陸・進攻,牡丹社などの蕃社をすべて平定した。清国は強く抗議,北京での談判も難航したが,駐清イギリス公使の斡旋で和議が成立。清は征台を保民義挙と認め償金50万両(テール)を支払う。12月台湾撤兵。宣戦発令順序を用意した日清開戦の危機は回避された。日本側の戦死12人,病死561人。翌年から琉球処分の施策が進められる。
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琉球(りゅうきゅう)船が台湾に漂着し乗員が先住民に殺されたことを理由に1874年,日本が台湾に出兵した事件。大久保利通(としみち)や大隈重信(おおくましげのぶ)らは,征韓論をめぐる士族の不満をそらすために出兵を計画した。木戸孝允(たかよし)の反対にあうが,西郷隆盛の強硬意見で出兵は実行された。そして中国にはこの出兵を「保民の義挙」であると認めさせることに成功した。
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