佐久間村
さくまむら
[現在地名]佐久間町佐久間
現町域のほぼ中央にある。南の中部村から北上してきた天竜川が東方に向きを変えて流れる左岸に位置する。同川はここから屏風のようにそびえる山々の間を蛇行してしだいに南下し、流域最大の難所を形成する。当村はそのすぐ上流部に開けた村で、北方に矢岳山(九二六・四メートル)があり、南流してきた河内川(厚血川)が天竜川に合流する。北はホウジ峠を経て領家村。豊田郡に属する。一三の集落からなり、「遠江国風土記伝」には西かいと・権現・峯村・森地・上野・百平・加別所・堀之内・片和瀬・下平・横尾・山室・大裏と記される。正和二年(一三一三)五月二日の関東下知状(尊経閣古文書纂)にみえる「奥山郷避前村」は当地のこととされる。同所など天野新左衛門入道観景(景茂)の遺領をめぐってはその子顕茂と景広の間で相論が起こり、正和三年和与となって両者の間で遺領が中分された。
佐久間村
さくまむら
[現在地名]鋸南町中佐久間・上佐久間など
下佐久間村の北東に位置し、中世には下佐久間村一帯は下尺万郷、当村域一帯は佐久間郷と称された。両郷域とも古代には平群郡狭隈郷(和名抄)に含まれていたとみられる。慶長期(一五九六―一六一五)には佐久間村一村であったが、おそらく元和検地の際に分立し、正保郷帳には佐久間仲村・佐久間下村・大崩村・奥山村の四村がみえる。天文一四年(一五四五)になった妙本寺日我の妙本寺年中行事(定善寺文書)に、同寺日永の事蹟を記して「俗生ハ鳥倉、氏藤原或平ニ而、生国ハ房州佐久間郷大崩ノ村也」とある。文禄二年(一五九三)一二月二五日の里見義康寄進状(妙本寺文書)に佐久間之郷とみえ、郷内の本途田地五貫代が妙本寺に寄進されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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