宝珠院(読み)ほうしゆいん

日本歴史地名大系 「宝珠院」の解説

宝珠院
ほうしゆいん

[現在地名]鳥取市南町

旧袋きゆうふくろ川西岸にある。近世は城下鹿野しかの橋から鍛冶かじ川の土橋を渡った北方にあり、同川に沿って一千二七坪の境内を擁する。当時は品治ほんじ町に属した。玉泉山と号し、高野山真言宗。本尊は不動明王。城下八ヵ寺の一で末寺は三ヵ寺(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。初め不動院と号し、播州備前にあった頃は池田家祈願所として寺領三〇俵を寄付されていた。寛永九年(一六三二)の池田光仲鳥取入封に遅れること三年、寛永一二年備前岡山から鳥取城下に移った。


宝珠院
ほうじゆいん

[現在地名]三芳村府中

府中ふちゆう集落の西手にある。真言宗智山派。金剛山神明坊神護寺宝珠院と号し、本尊は地蔵菩薩。近世には安房国常法檀林所とされた。創建年代は応永一一年(一四〇四)ともいうが未詳。開基は宥海とされ、初め実乗じつじよう院と号したが、興隆を極めた宥伝の代に改めたという。代々里見氏の祈祷所で、国中の霊場本寺とされ、寺領寄付があった。鎮守は清滝きよたき権現・秋葉権現稲荷明神で、本堂のほか鐘楼・仁王門・客殿・土蔵・所記寮などが置かれた(天保一三年「開祖以来大略」寺蔵文書など)


宝珠院
ほうしゆいん

三五世了堂素安塔所。素安は貞和元年没。応安元年足利義満は下野国簗田やなだ御厨懸郷地頭職を寄進(同年八月三日「皇大神宮権禰宜承房契状」県史三)。そのほか相模国柳田やなぎだ(現中郡大磯町)・上野国奈久留見なくるみ(現群馬県利根郡月夜野町)・某国広木郷・下総国内に院領のあったことが知られる。足利氏満在判の明月院絵図(明月院蔵)に名がみえる。天文一六年北条氏康や大道寺盛昌は法泉ほうせん寺敷地として三〇〇文の地を当院へ寄進し、法泉寺再興を図っている(同年一〇月一三日「大道寺盛昌書状写」県史三など)


宝珠院
ほうじゆいん

[現在地名]山田町豊間根

宇名田うなだにある。鞍東山と号し曹洞宗で、本尊は釈迦如来。江戸時代には瑞雲ずいうん(現宮古市)の末で、報恩ほうおん(現盛岡市)の支配下にあった(邦内郷村志)。寺伝によれば、古くは天台宗で天平年間(七二九―七四九)行基が開基。かつて境内に六坊と称して宝珠院・慈眼寺・地蔵院・清水寺・宗福寺・神峯寺の六ヵ寺と、六鎮守と号して毘沙門・薬師如来・日月山・稲荷・聖観音・不動の六宮があったといわれる。


宝珠院
ほうしゆいん

[現在地名]吉良町吉田 石池

名鉄西尾線の西五〇〇メートルに位置する。如意山と号し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。宝珠院国寿こくじゆ寺という。寛正四年(一四六三)教印栄俊の開創による吉田よしだ郷草分の古刹。教印は天台の学匠で、宝徳二年(一四五〇)比叡山から東国へ巡歴の途次、ここに草庵を結び、十一面千手千眼観音を祀って化益したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「宝珠院」の解説

宝珠院

千葉県印西市にある寺院。室町時代後期に建てられたとされる観音堂があり、国の重要文化財に指定されている。

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