佐渡七太夫(読み)さどしちだゆう

改訂新版 世界大百科事典 「佐渡七太夫」の意味・わかりやすい解説

佐渡七太夫 (さどしちだゆう)

正保から寛文(1644-73)ころの説経太夫。1648年(慶安1)刊の《せつきうしんとく丸》,56年(明暦2)刊の《さんせう太夫》の正本を出している。文献で知りうるいちばん古い太夫である。《大和守日記》の延宝8年(1680)4月8日の条に,堺町に操り座をもって興行していることが記されている。近世,全国の説経語りを支配していた関清水蟬丸神社には,寛文1年(1661)に1貫文という破格の灯明銭を出した記録がある。説経者の中の成功者であったと言える。
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関連語 武夫 岩崎

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐渡七太夫」の解説

佐渡七太夫 さど-しちだゆう

?-? 江戸時代前期の説経浄瑠璃(じょうるり)太夫。
正保(しょうほ)5年(1648)以降に活躍大坂の人だが,寛文元年(1661)江戸で説経節を興行したとつたえられる。「せつきやうしんとく丸」「せつきやうさんせう太夫」の正本をだしている。

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世界大百科事典(旧版)内の佐渡七太夫の言及

【説経節】より


[操り興行]
 《色道大鏡》(1678成立)巻八に〈説経の操は,大坂与七郎といふ者よりはじまる〉とあって,大坂では,伊勢出身というこの与七郎(説経与七郎)が寛永(1624‐44)ころ,生玉神社境内で操りを興行したと伝え,明暦~寛文(1655‐73)ころには説経七太夫も興行を行ったと伝える。この七太夫が江戸の佐渡七太夫の前身であろうとする説がある。京都では日暮林清(ひぐらしりんせい)らの鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが,この一派の日暮八太夫,日暮小太夫が寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝え,正本(しようほん)の刊行などから推して寛文ころが最盛期であったらしく,小太夫は1664年(寛文4)に説経操りを法皇の叡覧に入れている(《葉室頼業記》)。…

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