説経(読み)セッキョウ

デジタル大辞泉 「説経」の意味・読み・例文・類語

せっ‐きょう〔‐キヤウ〕【説経】

[名](スル)
僧侶が経典の意味を説いて聞かせること。
説経節」の略。

せ‐きょう〔‐キヤウ〕【説経】

「せっきょう」の促音の無表記。
「―などにはことに多く聞えざりき」〈・三三〉

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精選版 日本国語大辞典 「説経」の意味・読み・例文・類語

せっ‐きょう‥キャウ【説経】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( ━する ) 経文の意味を説き聞かせること。説法。唱導。談義。せきょう。
    1. [初出の実例]「たふときこと、道心おほかりとて、説経すといふ所ごとにさいそにいきゐるこそ」(出典:枕草子(10C終)三三)
    2. 「或者、子を法師になして、『学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ』といひければ」(出典:徒然草(1331頃)一八八)
  3. せっきょうぶし(説経節)」「せっきょうじょうるり(説経浄瑠璃)」などの略。
    1. [初出の実例]「ハチコクリ、または、ハチタタキ、xecquiǒno(セッキャウノ) タグイ」(出典:ロドリゲス日本大文典(1604‐08))
    2. 「日暮し小太夫が説経(セッキャウ)を聞けば」(出典:浮世草子・俗つれづれ(1695)一)
  4. 浄瑠璃で、説経節の曲節を取り入れた部分。哀愁に富んだ物悲しい曲調に特色がある。

せ‐きょう‥キャウ【説経】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「せっきょう」の促音「っ」の無表記 ) =せっきょう(説経)
    1. [初出の実例]「せ経などにはことにおほく聞えざりき」(出典:枕草子(10C終)三三)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「説経」の意味・わかりやすい解説

説経
せっきょう

語物。正しくは説経浄瑠璃(じょうるり)、説経節ともいう。鎌倉末から室町初期のころ仏教界の節付(ふしづけ)説教(節談(ふしだん)説教)から派生した民間芸能。もともと説経(説教)とは、経典や教義を説いて民衆を教化する行為をさすが、それを実践する説経師(説教者)たちが、ことばに節をつけて話芸風に口演したためしだいに芸能化し、ついに民間人のなかに入ったのである。民間を流浪する唱門師(しょうもんし)らの手に渡った説経は、寺院の説教(唱導)における譬喩因縁(ひゆいんねん)談を簓(ささら)、鉦(かね)、鞨鼓(かっこ)を伴奏として語り、歌っていたが、門付(かどづけ)をしたために「門説経(かどぜっきょう)」とよばれた。また、歌謡性が強いために「歌説経(うたぜっきょう)」ともいわれた。

 この系統のものとは別に、大道芸人のなかに入った説経は、やがて小屋で人形を遣う説経座となった。つまり説経には、(1)門説経、歌説経の放浪芸の系統と、(2)小屋掛け興行の説経座の系統と2種類があったのである。(1)の系統と三井寺(みいでら)とは近世に深いかかわりをもっていた。三井寺所属の近松寺(ごんしょうじ)の支配下に関清水蝉丸宮があり、その配下に民間を流浪する多数の説経語りがあって全国各地で活動した。この系統の人たちのなかには、山伏の祭文(さいもん)と結び付いて「説経祭文」となり、文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)(1804~1844)のころに寄席(よせ)演芸にもなった。

 (2)の系統では近世において関東の玉川派、関西の日暮(ひぐらし)派が知られ、おおむね勢力を二分していた。この説経の全盛期は、寛永(かんえい)(1624~1644)から万治(まんじ)・寛文(かんぶん)(1658~1673)のころで、京都の日暮小太夫、大坂の説経与七郎、江戸の佐渡七太夫、天満八太夫、結城孫三郎(ゆうきまごさぶろう)らが著名であった。正本として『五翠殿』(熊野之御本地)、『法蔵比丘(ほうぞうびく)』(阿弥陀(あみだ)之本地)、『阿弥陀胸割(むねわり)』『梵天国(ぼんてんごく)』『目蓮尊者(もくれんそんじゃ)』『善光寺開帳』『釈迦(しゃか)の本地』『五大力菩薩(ぼさつ)』『曇鸞記(どんらんき)』などがある。多くの演目のなかで「苅萱(かるかや)」「信徳丸(俊徳(しゅんとく)丸)」「小栗判官(おぐりはんがん)」「三荘太夫(さんしょうだゆう)(山椒太夫)」「梵天国」が五説経とされたが、享保(きょうほう)(1716~1736)のころ「苅萱」「三荘太夫」のほかは「愛護若(あいごのわか)」「信田妻(信太妻)(しのだづま)」「梅若」が入れ替わって五説経といわれたという。この系統の説経は、浄瑠璃や歌舞伎(かぶき)に比べて難点が多く、低俗だったため、宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~1716)ごろ京坂のほうから人気を失い、早く衰退した。

 しかし、江戸において、放浪芸の系統から祭文として命脈を保ってきた説経を巧みに利用して寛政(かんせい)・享和(きょうわ)(1789~1804)のころに再興した一派があった。薩摩(さつま)派、若松派はその系統である。

[関山和夫]

『室木弥太郎著『語り物(舞・説経・古浄瑠璃)の研究』(1970・風間書房)』『荒木繁・山本吉左右編・注『説経節』(平凡社・東洋文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「説経」の意味・わかりやすい解説

説経 (せっきょう)

説経唱導ともいい,仏教の教理や信仰を平易に解説すること。もとは経典の内容や譬喩(ひゆ)を語ることから説経といったが,講経といわれるほど内容に密着したものでなく,興味本位の譬喩説や因縁談が多かった。これを語るためには節をつけたので,説経は芸能化して説経浄瑠璃,説経節になった。また近世には節談(ふしだん)説教ともいったが,説教と称する法話とは別である。説経の名称は平安時代からもちいられ,《枕草子》に〈説経師は顔よき〉と書かれたのは有名で,興味本位に見られていた。しかし一般に説話とよばれるものは説経の材料だったので,奈良時代の説経をうかがわしめるものに《日本霊異記》がある。そしてこの説経に《諸経要集》という種本があったこともわかる。説経にいっそうの娯楽性をもたせるために,絵巻物や掛幅の絵解きが併用され,また楽器の伴奏や踊りが入れられることもあった。謡曲《自然居士(じねんこじ)》では雲居寺造営の勧進札を売るための説経者が,羯鼓(かつこ)をうち,簓(ささら)をすって高座で踊ったとある。しかし中世までの説経はあくまでも仏教の唱導をはなれなかった。また中世には説経に流派もできて,なかでも安居院(あぐい)流が有名である。これは神仏の本地譚と縁起を語ったもので,その説話をあつめたのが《神道集》である。このように説経は説話文学という形で今ものこっているが,その芸能性は説経浄瑠璃,説経節にひきつがれ,心中物や仇討物を語るようになり,チョンガレ,浪花節になった。
説話文学
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普及版 字通 「説経」の読み・字形・画数・意味

【説経】せつけい

講釈。

字通「説」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の説経の言及

【講説】より

…仏教の法会に,経典の題名や内容の講経と説経をすること。講経は多く竪精(りつせい)論義という形式をとり,経典の講義にディスカッションを付けるが,講説の場合は講経と説経で,説経は講経を平易にし,例話や比喩でおもしろくしたものである。…

【説経節】より

…操(あやつり)人形と提携して小屋掛けで興行されることもある。
[名称]
 単に〈説経〉でこの芸能をさすこともある。古くは〈せつきやう〉と仮名書きが多く,説経とも説教とも書かれるが,今日では説経と書くのがふつう。…

【説話】より

…その具体的内容や芸人の名前は,開封のようすを書いた《東京夢華録》,杭州に関する記録である《都城紀勝》《西湖老人繁勝録》《夢粱録》《武林旧事》の諸書にみえ,とくに《都城紀勝》と《夢粱録》では,説話を4家に分類している。ただし,その分け方は明確さを欠き,いくつかの解釈が可能であるが,〈小説〉〈説経〉〈講史書〉の3家は,どの解釈によっても共通する。 小説は一名〈銀字児〉ともいい,市井のさまざまな物語を語る短編の話で,内容によって,さらに煙粉(恋愛物),霊怪,伝奇,公案(裁判物),鉄騎児(軍記物)などに細分される。…

※「説経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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