20世紀日本人名事典 「佐瀬熊鉄」の解説
佐瀬 熊鉄
サセ クマテツ
- 生年
- 慶応1年12月10日(1866年)
- 没年
- 昭和4(1929)年9月5日
- 出生地
- 陸奥国会津(福島県)
- 学歴〔年〕
- 海軍軍医学校〔明治20年〕卒
- 経歴
- 会津藩家老・一瀬要人の二男に生まれ、のち佐瀬家を嗣ぐ。明治15年海軍軍医学校に入学、20年卒業し海軍少軍医候補生となる。鈴木天眼・中野天門らと交わり職を辞して、27年朝鮮に渡る。韓国政府の嘱託を受けて警務庁医務・監獄署医務・訓練隊衛生事務・裁判医事顧問などを務めるが、28年閔妃暗殺事件に連座して広島に入獄される。29年免訴放免となり、30年再び朝鮮に渡り親日党の策動を援助した。35年福島県から衆院議員(憲政本党)に当選1回、政界に活躍したが、日露戦争に際し三度朝鮮に渡り、宋秉畯・尹始炳・李容九らと往来して一進会の組織を助け、同会顧問となる。39年韓国農商工部の嘱託となり平壌に赴き無煙炭砿の開坑に従事し、対露利権問題に尽力した。その後も朝鮮の産業開発などに生涯を捧げ、朝鮮問題の功労者として知られる。俳句をよくし石鷗と号した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報