明治後期の政党。1898年10月隈板(大隈・板垣)内閣が瓦解し,旧自由派が憲政党の党名と綱領・党則を継承したため,旧進歩派は11月3日党名を憲政本党とし,綱領に政党内閣の樹立,通商貿易の拡張,財政の均衡,産業の振作,国力に応じた陸海軍の整備などを掲げ,総務委員には河野広中,工藤行幹らを選び,所属代議士116名を数えた。結党直後の第13議会に政府が提出した地租増徴法案には反対運動を展開し,1900年の北清事変(義和団)を契機に国民同盟会の中心となって対外硬運動を推進した。その間,立憲政友会の創立に対抗して1900年12月には大隈重信が総理に就任したが,第15議会で北清事変の戦費補てんのための増税案に賛成したため,30余名が反対して脱党した。日露戦争前には,政友会と提携して桂太郎内閣に対抗したが,開戦とともに積極的に戦争を支持し,講和条約の内容が明らかになるとこれに反対して非講和運動を展開した。日露戦争後は,政友会を与党とする西園寺公望内閣と桂内閣が交互に政権を担当したため,野党の立場を脱却できず党勢は後退,党内動揺の末に07年1月大隈は総理辞任を余儀なくされた。それ以後も,非政友各派を糾合して官僚派に接近しようとする大石正巳ら改革派と,民党主義を堅持しようとする犬養毅ら非改革派との対立は続き,09年に両派の対立が頂点に達した。しかし改革派から日糖事件の連座者を出したことから勢力を失い,両派は妥協して第2次桂内閣に対して野党的立場をとり,10年3月又新(ゆうしん)会,無名会,旧戊申俱楽部の一部と合同して立憲国民党を結成した。
執筆者:宇野 俊一
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明治時代後期の政党。1898年(明治31)憲政党が分裂し、11月3日旧進歩派が中心となって結成した。第13議会では政府提出の地租増徴案に反対して全国的な運動を展開、1900年(明治33)伊藤博文(ひろぶみ)の立憲政友会の結成に伴う党内動揺を食い止めるため大隈重信(おおくましげのぶ)が総理に就任した。翌年義和団(ぎわだん)事件の戦費補填(ほてん)を名目とする増税案に賛成したため、30余名の脱党者を出して党勢は弱体化した。第一次桂(かつら)太郎内閣に対しては野党として行財政の整理を要求、日露戦争前には政友会と提携して野党色を強めたが、開戦とともに戦争を支持し、莫大(ばくだい)な戦費の捻出と関係法案の成立に努めた。05年(明治38)日露講和条約の内容が判明すると、これに反対して全国的な非講和運動を展開した。戦後も野党として党勢振るわず、07年には大隈の党首引退となった。翌08年6月ごろから政友会に対抗するため非政友合同の運動が起こるが、各党の思惑は一致せず、党内にも、桂太郎・大浦兼武(かねたけ)らの官僚派に接近しようとする大石正巳(まさみ)らの改革派と、犬養毅(いぬかいつよし)らの民党主義を堅持しようとする非改革派が対立した。09年日糖(にっとう)疑獄事件を契機に改革派の勢力は衰え、10年3月13日、又新(ゆうしん)会、無名会や旧戊申倶楽部(ぼしんくらぶ)の一部と合同して立憲国民党を結成した。
[宇野俊一]
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明治後期の政党。1898年(明治31)11月成立。同年10月第1次大隈内閣の崩壊にともない与党憲政党のうち旧自由党系だけで憲政党を解散,新たに同名の憲政党を組織したため,残された旧進歩党系が憲政本党を結成した。結党時の議席数は123で憲政党を上回っていたが,尾崎行雄らの立憲政友会入りや第15議会での増税反対派の脱党などで弱体化。日露戦後になると非政友大合同と官僚閥への接近をめざす大石正巳(まさみ)らの改革派と,民党主義を維持しようとする犬養毅(いぬかいつよし)らの非改革派との対立が顕在化。1909年,第26議会を前に両派の妥協が一応成立,翌年3月,又新会(ゆうしんかい)・無名会などと合同して立憲国民党を結成。
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