朝鮮民主主義人民共和国の首都。ピョンヤン。朝鮮半島の西北部,大同江中流の準平原地帯の北端に位置する古都で,現在は直轄市となっている。人口316万(2001推定)。西北朝鮮最大の平野を背後に,川幅500m以上の大同江岸の高台に位置し,古くから軍事上の要害の地であった平壌は朝鮮最古の都市とされている。大同江が東から大きく回って綾羅島をはさんで市の中央部を南流し,南部には羊角島,狸岩島がある。平均気温は9.4℃,8月24.4℃,1月-8℃で年較差が大きい。1948年9月,朝鮮民主主義人民共和国が独立し,平壌はその首都とされた(憲法上の形式的な首都は1972年の憲法改正までソウルとなっていた)。朝鮮戦争(1950-53)中,平壌の市街地は空爆によりひどく破壊されたが,戦後,共和国政府は首都平壌の建設に膨大な資材と労力を投入し,公園の中の都市といわれる美しい大都市を再建した。
李朝時代の平壌は大同江西岸の北にある小高い万寿台(マンスデ)から南の蒼光山に至る小地域だったが,植民地時代に蒼光山以南に軍事施設中心の市街地が,また大同江対岸に工場地帯が拡大した。朝鮮戦争以後,数回の行政区域変更措置を通じ,平壌市は大拡張され,19区域3郡を擁する大都市となった。現在,市の面積は約1000km2と推定され,植民地時代の23km2の40倍以上になった。人口170万人からすると人口密度はわずか1700人/km2で,大都市としては低い方に属する。大同江西岸の中心部は大小の街路によって区画された国家行政,文化の中心地であり,広い緑地帯の中に中央官庁,金日成総合大学,人民文化宮殿,人民大学習堂(大図書館)などの記念碑的大建築が散在している。職住近接の政策により,それらの機関で働くエリート層は中心部の高層アパート群に住んでいる。市中央を流れる普通江一帯は市民公園となっている。普通江と大同江にはさまれた市の中心部牡丹峰(モランボン)一帯は金日成銅像,朝鮮革命博物館,チョンリマ(千里馬)像などの巨大建造物が集中する革命聖地とされ,全国から人民の訪問の絶えない巡礼地となっている。かつて中心部にあった工場はすべて郊外へ,また平安南道の道行政機関も68年新設された隣接する平城市へ移された。こうして平壌の中心部は共和国の社会主義建設の指導中枢となっている。
平壌市周辺は石炭,石灰石など地下資源に富み,また共和国の主要な農業地帯となっており,これらを背景に各種の工業が中間地域に集中している。セメント,繊維,食品などは比較的早くから発達したが,近年は機械製作工業に力が入れられている。平壌市の周縁地域には農場が分布し,平壌市民への食糧供給基地となっている。特に副食物の野菜,肉類,鶏卵,果物の生産に重点が置かれており,万景台養鶏場のような大規模な畜産業も行われている。平壌と北京の間には直通の国際列車が往復しており,平壌空港からは北京,モスクワへ空路が開設されている。また,海上交通としては,大同江下流の南浦が平壌の外港となっている。
古朝鮮,すなわち建国神話に現れる檀君朝鮮から,やはり伝説の域を出ない箕子(きし)朝鮮,そして前2世紀中の約90年間中国の遼河一帯,北朝鮮を支配した衛氏朝鮮につらなる古代朝鮮国の王都である王倹城は平壌付近にあったとみられている。前108年に衛氏朝鮮を滅亡させた漢の武帝はこの地域に漢四郡を設置したが,その中心的存在となった楽浪郡の首都も王倹城であった。楽浪郡を通しての漢の朝鮮支配は合計420年間に及び,その拠点となった平壌には,楽浪文化が栄えた。楽浪城の跡は市内の土城洞に今も残っている。紀元前後から中国東北部に起こり,北朝鮮へ勢力を拡大してきた高句麗は4世紀に楽浪郡の支配地域を統合し,427年首都をそれまでの国内城(現在の中国吉林省集安付近)から平壌へ移した。三国時代の平壌は激しい勢力争いを反映し,二重三重に城壁をめぐらした要塞都市であった。668年に唐・新羅連合軍によって高句麗が滅ぼされた後は,この地に唐の安東都護府が置かれた。高句麗滅亡直後,高句麗の遺民と靺鞨(まつかつ)族が渤海を建て,高句麗の旧領の大部分を支配するようになったが,首都を現在の吉林省方面に移したため,平壌は辺境地とされた。918年に建国された高麗王朝は,東・西朝鮮湾をつなぐ地域までの朝鮮半島を統一することに成功し,首都こそ開城に置いたが,平壌を西京として北進の拠点とし,また首都に対する北の守りとした。高麗王朝を滅ぼした李朝も首都をさらに南方のソウルへ移したが,平壌を平安道の道都にすえた。李朝時代には人口が2万人ほどに達したとみられ,ソウル,開城につぐ第3の都市であった。
日本の支配下に入って,1906年の京義線(京城~新義州)の開通を皮切りに,大同江下流方面への平南線(至南浦),日本海沿岸地方へ通ずる平元線(至元山),鴨緑江流域方面へ至る満浦線(至満浦)などが平壌を基点に整備され,平壌は北朝鮮の軍事,行政,経済の中心都市として急速に発達した。すなわち,1930年には人口が15万人以上になり,ソウルに次ぐ大都市となった。製糖や兵器厰など日系の大企業のほかに,後背地の農村を市場として食品,繊維など中小企業が多数設立された。一方,平壌では李朝末以来,キリスト教系の宗教団体による学校教育が盛んに行われ,キリスト教の影響が平壌市民の間の根強い反日感情の精神的バックボーンとなったとされている。
執筆者:谷浦 孝雄
平壌一帯の歴史は旧石器時代にさかのぼるが,旧石器時代の前期では祥原郡コムンモル遺跡が著名である。中期には力浦区域大峴洞で旧人の,後期では勝湖区域晩達里で新人の化石人類がそれぞれ出土して注目される。櫛目文土器時代(新石器時代)に入ると,大同江下流域の河岸に立地する遺跡が,三石区域湖南里南京,寺洞区域美林洞・金灘里(きんだんり)(金灘里遺跡),大聖区域清湖洞などに点々と分布する。それらは,旧石器時代以来の,狩猟,漁労を主体とした採集経済を基盤とする文化の所産である。無文土器時代(青銅器時代)に入って,畑作中心の生産経済へと移行し農耕集落が増大していくが,この時代の墳墓としては,支石墓や箱式石棺墓がいちじるしく,平安南道大同郡の旧柴足面青雲里などに支石墓の遺例をみる。そうした地域的発展と,記録にみえる前2世紀前半ごろにおける衛氏朝鮮の成立との諸関係はよくわからない。ついで,漢の武帝は前108年に衛氏朝鮮を倒して,現在の平壌市楽浪区域を中心とした地域に楽浪郡を設置した。
その後,高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼし,平壌城を増築したが,この平壌城は,平壌市大聖区域清岩里に残る土城と考えられる。さらに427年に輯安(しゆうあん)(現,吉林省集安)の国内城から平壌城へ遷都した。それ以後,高句麗後期の首都,平壌は,政治的・経済的・軍事的拠点として繁栄した。そのころの都城は,市内大聖区域安鶴洞に残る安鶴宮跡を日常平時の王宮とし,その背後の丘陵に大聖山城を築いて,いったん危急時の王都の守りとした。王宮は一辺約620mの方形の城壁で囲まれ,また山城は六つの峰をとり囲んで周囲7kmほどの城壁が五角形に近い楕円形にめぐる。そして,586年には,そこから南西方6~7kmのところに,30年ほどかかって長安城を築き,本格的な都城を完成させた。長安城は,山城形式をとった北城,中枢的な内城・中城,さらに整然とした方格地割をもった外城からなり,全体を総延長23kmの城壁でとり囲むという壮大なものであった。当時の王・貴族階級の古墳は,平壌市街の北東方の丘陵地帯に濃密に分布するが,そのほとんどが横穴式石室を内部主体とし,なかには壁画で飾るものもある。また,この時期に,高句麗仏教は隆盛期を迎え,平壌地方には金剛寺や定陵寺をはじめとする寺院跡が知られる。
執筆者:西谷 正
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朝鮮民主主義人民共和国の首都。半島北西部を流れる大同江岸に位置し,河口の南浦を外港とする。歴代王朝にとっては,中国東北部に連結する北方の交通・軍事の要衝であった。武帝が設置した漢4郡の中心地である楽浪郡の王険(倹)(おうけん)城も平壌付近とみられる。朝鮮王朝時代にも平安道の道都が置かれたが,植民地時代に半島北部を縦断する京義線(ソウル‐新義州(シンウィジュ)),横断する平元線(平壌‐元山(ウオンサン))が開通し,交通の拠点となった。しかし,朝鮮戦争でほぼ完全に破壊された。1972年の憲法改正で正式に朝鮮民主主義人民共和国の首都とされ,それ以後,首都建設に拍車がかかった。中心部には,金日成(キム・イルソン)銅像,主体(チュチェ)塔,凱旋門(がいせんもん)などの記念碑的建造物が立ち並ぶ。
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…なかでも素弁蓮華文瓦は日本との関連を示し,日本の初期仏教建築に与えた影響を認めることができる。
[高句麗]
高句麗は後1世紀ころ,鴨緑江中流の通溝に拠を構え,3世紀ころには国内(輯安)城と山城の子山城を築いたが,4世紀ころには大同江下流の平壌に都を遷した。初めは大城山一帯と安鶴宮を中心にしていたが,586年(平原王28)に平壌城を築いて都とした。…
…武帝は前109年(元封2)衛氏朝鮮王朝最後の国王,衛右渠の抗命を理由に出兵して,翌年これを平らげ楽浪ほか3郡をおいて朝鮮を直接支配下に編入した。楽浪郡の中心地はほぼ現在の平壌付近に比定される。最初の領域は現在の大同江,清川江沿岸から鴨緑江下流方面にわたるものと推定され,朝鮮半島北西部の重要な地域を包括するものであった。…
※「平壌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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