朝日日本歴史人物事典 「佐竹隆義」の解説
佐竹隆義
生年:元永1(1118)
平安末期常陸国(茨城県)の武将。佐竹昌義と陸奥押領使藤原清衡の娘の子。太田四郎とも。法名蓮真。異腹の兄忠義が祖母の府中大掾家を継ぎ,源頼朝方に誅されたため,太田に拠って父の跡を継ぐ。昌義以来平氏に属し,平清盛の執奏により従五位,常陸介になる。その権威は境外におよび,郎中は国中に満つといわれた。源姓ではあるが,治承4(1180)年の頼朝の挙兵には参加せず在京。ために富士川の戦ののち頼朝は平氏追撃を断念。金砂城(茨城県)の一族を攻め,佐竹氏旧領を伊賀光季の一族や宇佐美氏などに分与。ただ,頼朝は平氏西走後も陸奥の藤原秀衡,常陸の隆義の存在を理由に上洛しなかった。<参考文献>『茨城県史』
(松井茂)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報