鎌倉初期の華厳(けごん)宗の学僧。諱(いみな)は高弁(こうべん)。紀州(和歌山県)の人。平重国(たいらのしげくに)の子。幼くして両親を失い、叔父の上覚(じょうかく)(行慈(ぎょうじ)。1147―1226)を頼り高雄(たかお)神護寺に入る。尊実(そんじつ)、景雅(けいが)らに密教や華厳を学び、東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足(ぐそく)戒を受ける。また興然(こうねん)(1121―1204)から密教を学び、さらに東大寺尊勝院(そんしょういん)で華厳学の研究に励んだが、1195年(建久6)紀州白上(しらがみ)の峰に庵居(あんきょ)し、修行生活を送った。高雄山(たかおさん)の文覚(もんがく)の勧めで栂尾(とがのお)に住したが、ふたたび10余人の門弟と白上に移り、学問研究と禅定に励む。1205年(元久2)釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、インドに渡って仏跡を拝せんとしたが、春日明神(かすがみょうじん)の託宣により果たせなかった。1206年(建永1)後鳥羽(ごとば)院の院宣を受けて高山(こうざん)寺を再興して華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図るとともに、『摧邪輪(ざいじゃりん)』(1212)、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』(1213)などを著し、法然(ほうねん)(源空)の専修念仏(せんじゅねんぶつ)を厳しく批判した。また上覚から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』『三時三宝礼釈(らいしゃく)』『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著す。晩年は講義、説戒、坐禅(ざぜん)修行に励み、光明真言(しんごん)の普及にも努めたが、寛喜(かんき)4年正月19日、弥勒(みろく)の宝号を唱えながら60歳で没した。おもな著書に『入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)』『華厳信種義(しんしゅぎ)』『光明真言句義釈』などがある。承久(じょうきゅう)の乱(1221)で敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時(ほうじょうやすとき)と親交し、栄西(えいさい)が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしたことでも有名。
[納冨常天 2017年10月19日]
『村上素道著『栂尾山高山寺 明恵上人』(1929・高山寺)』▽『田中久夫著『明恵』(1961・吉川弘文館)』▽『白洲正子著『明恵上人』(1974・新潮社)』▽『奥田勲著『明恵――遍歴と夢』(1978・東京大学出版会)』▽『明恵上人と高山寺編集委員会編『明恵上人と高山寺』(1981・同朋舎出版)』
鎌倉前期の華厳宗の学僧。明慧とも書く。諱(いみな)は高弁,青年時代は成弁と称した。紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現和歌山県有田郡有田川町,旧金屋町)の人。父は平重国,母は湯浅宗重の第四女。8歳のときに母,ついで戦乱で父を失う。母方の叔父の神護寺上覚に師事し,16歳のとき出家,東大寺戒壇院で受戒し,尊勝院弁暁・聖詮について華厳(けごん)・俱舎(くしや)を受学,また密教を興然・実尊に,禅を栄西について学んだ。21歳ころに神護寺の別院栂尾(とがのお)山(十無尽院)に住し,東大寺尊勝院に赴いたが,寺僧間の争いをいとい,23歳のとき故郷に近い白上(しらかみ)峰にこもり,あるいはときに神護寺に帰住するなどして,《華厳経》関係の仏典の研究をした。
明恵はかねてインド仏跡参拝を計画していたが,1203年(建仁3)春日明神の神託により断念,05年(元久2)にも再度渡印の計画を実行に移そうとして《天竺里程書(印度行程記)》を作成したが,急病のため念願を果たせなかった。06年(建永1)11月に後鳥羽院から栂尾の地を賜り,弟子義林房喜海などを伴って移り,《華厳経》の〈日出先照高山嶺〉より高山寺と称することにした。まず金堂を造り,運慶・湛慶により釈迦や四天王像などが造られ,その後諸堂が整備された。金堂の裏山を楞伽(りようが)山と名付け,山中に花宮殿・羅婆坊と称する草庵を設け,巨石を定心石と名付けてときに寺中より逃れ,経疏を読み,坐禅入観の場とした。釈尊の遺跡になぞらえたもので,その旧跡が山中に現存している。承久の乱のとき,公卿の妻女などをかくまい捕らえられたが,かえって北条泰時の帰依をうける機縁となった。また公卿の妻女は善妙寺にあって明恵について出家し,仏道修業の指導をうけ,高山寺尼経といわれる小冊子本の《華厳経》(40巻本)が残っている。釈尊を追慕し名利をいとった高潔な行状は多くの人々から尊崇された。その中には九条兼実・道家,西園寺公経,藤原定家や北条泰時,安達景盛らがおり,笠置寺の貞慶,松尾寺の慶政などとも親交があった。法然の浄土教に反駁した《摧邪輪(さいじやりん)》をはじめ,《華厳唯心義》など《華厳経》に関する著作が多く,《四座講式》はことに著名である。若いころからたびたび夢想を受けて〈夢の記〉を伝え,また栄西より茶の実を得て,栂尾に茶を植えていわゆる〈栂尾茶〉を栽培した。
執筆者:堀池 春峰
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(松尾剛次)
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1173.1.8~1232.1.19
鎌倉前期の華厳宗の僧。明恵房高弁(こうべん)。栂尾(とがのお)上人。紀伊国生れ。父は平重国,母は湯浅宗重の女。幼くして両親を失い,高雄神護寺に文覚の弟子上覚(じょうかく)を師として出家。仁和寺や東大寺に真言密教や華厳を学び将来を嘱望されたが,俗縁を絶ち紀伊国有田郡白上(しらかみ)や同国筏立(いかだち)に遁世した。釈尊への思慕の念が深く2度インドへの渡航を企てたが,春日明神の託宣により中止した。1206年(建永元)後鳥羽上皇から栂尾を下賜されて高山(こうざん)寺を開き,観行と学問につとめた。著書に「摧邪輪(さいじゃりん)」「涅槃講式」「舎利講式」や,40年に及ぶ観行での夢想を記録した「夢記」などがあり,弟子の筆記になる「却廃忘記」など多数ある。和歌を多く残し「明恵上人和歌集」がある。
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…後ジテは竜神。明恵上人(みようえしようにん)(ワキ)は仏跡探訪を思い立ち,いとまごいのために春日明神に参る。宮守の老人(前ジテ)は,明神が上人を特別に大切に思っていることを告げ,仏滅後の今日では,春日山こそ釈迦説法の霊鷲山(りようじゆせん)に等しいと言って渡航を制止する。…
…湯釜は奈良時代から作られており,平安時代には厨房具として用いられていたが,鎌倉時代に至って茶の湯の興隆に伴い,専用の茶の湯釜が製作された。伝説では建仁年間(1201‐04)に明恵が筑前芦屋の鋳工に釜を鋳させたのが始りという。その祖型は在来の飯釜,湯釜に求められるが,しだいに工芸品として完成されていった。…
…来迎山と号す。華厳教学復興で知られる明恵上人高弁の生誕地に明恵の高弟義林房喜海が,師の遺徳をしのび土地の豪族湯浅宗光(明恵の母の兄)の三男左衛門尉宗氏の協力を得て建立したという。元禄年間(1688‐1704),浄土宗に改宗。…
…義湘絵4巻,元暁絵2巻からなっていたが,現在は各3巻に仕立てられ錯簡や欠失も少なくない。鎌倉時代初頭に南都の古宗である華厳宗を復興した高山寺の明恵は,2人の祖師を深く尊崇し,みずからこの物語をつくり,側近の画家に描かせた。義湘絵は入唐した義湘に対する美女善妙の献身的な愛を中心とし,唐土で教学を修め帰国する義湘を追う善妙が最後に海中に身を投じ,巨大な竜に変じて義湘の船を守護する場面はドラマティックな流動感にあふれている。…
…鎌倉時代の初め,この地にあった天台の古刹度賀尾寺(とがのおでら)が神護寺の文覚(もんがく)によって復興され,神護寺の別院となった。しかし,この寺はまもなく荒廃し,1206年(建永1),後鳥羽上皇の命を奉じた明恵(みようえ)(高弁)が華厳宗興隆の道場として再興した。いまの高山寺の始まりである。…
…補陀洛山と号す。明恵上人を開山とする。寺は白上峰(しらがみみね)の中腹にあるが,この白上峰は1195年(建久6)のころ明恵が草庵を結んで修練を積んだ由緒のある地で,上人と同族で上人に深く帰依した湯浅景基が1231年(寛喜3)に一宇を建立して観世音菩薩像を安置し,当時栂尾の高山寺にあった上人を招いて落慶供養を営んだ。…
…善財童子は修行者の理想とされ,後の仏教文化に大きな影響を与えた。中国にも敦煌壁画の華厳変相図の中に見られるものなど善財の遍歴を図像化したものが見られるが,日本では高弁(明恵上人)による善財童子の讃歎が有名であり,また東大寺には《華厳五十五所絵巻》《華厳海会善知識曼荼羅図》などが現存する。東海道五十三次もこの話にもとづいて制定されたともいわれる。…
…弥勒のもとに生まれその化導を受けようとする兜率往生の信仰は古く,阿弥陀仏の浄土への往生との優劣が争われたこともある。兜率往生は,日本では鎌倉時代,貞慶(じようけい),明恵(みようえ)らによって説かれ,〈兜率天曼荼羅〉などの制作もなされた。【定方 晟】。…
…湯浅氏の湯浅城跡が青木に,湯浅宗重が一族の守護神としてまつったという顕国(けんこく)神社が湯浅にある。なお高山寺の明恵(みようえ)は湯浅一族の出身で,栖原(すはら)には明恵ゆかりの施無畏(せむい)寺があり,古文書を蔵する。白上峰や湯浅湾中の苅藻(かるも)島は明恵修行の地として知られる。…
…なお〈ミミヲキリ,ハナヲソギ,カミヲキリテアマニナシテ……〉と百姓を威嚇した阿氐河荘上村の地頭は,宗光の孫の宗親である。文覚,行慈のもとで出家し,高山寺の開山となった明恵(みようえ)も母が宗重の娘で,幼少より湯浅一族に養育され,しばしば在田郡に下向し,郡内の各地で修行した。このため一族のなかには明恵に対する信仰が広まり,これが族的結合の強化に一役買っている。…
※「明恵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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