日本歴史地名大系 「倉垣村」の解説 倉垣村くらがきむら 大阪府:豊能郡能勢町倉垣村[現在地名]能勢町倉垣歌垣(うたがき)山の西麓に位置し、田尻(たじり)川が南西流して、中央部は倉垣盆地が開ける。能勢街道が歌垣山の麓を南北に通る。北は釈迦(しやか)ヶ岳を隔てて丹波国桑田(くわた)郡東加舎(ひがしかや)村(現京都府亀岡市)、北東は吉野(よしの)村。長尾(なごお)・和田(わだ)・上村(かみむら)・西村(にしむら)・加村(かむら)の集落がある。縄文時代の石器・土器が出た堀越(ほりこし)遺跡や、大貝谷(おおかいだに)古墳群などがある。「摂津国風土記」逸文に「雄伴の郡、波比具利岡、此の岡の西に歌垣山あり、昔者、男も女も此の上に集ひ登りて、常に歌垣を為しき、因りて名と為す」とあり、これは当地の歌垣山のこととする説がある。古代・中世は倉垣庄として推移、村名は、元仁元年(一二二四)二月三日の僧理真田地譲状(勝尾寺文書)に「能施郡倉垣村」とみえる。天正一一年(一五八三)一一月二二日、京都龍安(りようあん)寺に宛てた豊臣秀吉安堵状(龍安寺文書)に「能勢郡内倉垣村五拾八石参斗事、任当知行旨、弥寺納可有」とある。 倉垣村くらかけむら 石川県:羽咋郡志賀町倉垣村[現在地名]志賀町倉垣矢駄(やだ)村の北にあり、西部を南流する安津見(あづみ)川の河谷平地に集落を形成。東は眉丈(びじよう)山系。元和二年(一六一六)の高六五七石余(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳によると高六六四石余、田三八町三反余・畑六町、免三ツ一歩三厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高六七五石、免五ツ、新田高一九石、小物成は山役二六八匁・苦竹役二八匁、鳥役六匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細では高六九八石余となり、家数四八(うち頭振七)・人数二四五、馬二三、稼は布・苧・ばい木・杪。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by