倉垣庄(読み)くらがきのしよう

日本歴史地名大系 「倉垣庄」の解説

倉垣庄
くらがきのしよう

しも村を中心として、現小杉こすぎ町・新湊市の一部地域など放生津ほうじようづ潟周辺湿地帯の広がる射水平野に形成された京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)領庄園。成立は他の多くの同社領庄園と同じく、寛治四年(一〇九〇)である。律令制の弛緩により従来上・下の両賀茂神社に加えられてきた国家的保護としての封戸・免田では神社経営が困難になってきたため、先年来寄進庄園の選定が進められてきた結果、この年七月一三日をもって両社に各六〇〇余町ずつの不輸田が寄進された(賀茂社古代庄園御厨)。倉垣庄地域ではすでに一一世紀中期から寒江さぶえ(現富山市)の郷司らによる別名として下村地域での開発が着手され、しかも賀茂神を勧請して村落形成が進められていたようである。成立時の倉垣庄の庄田面積は三〇町であった(同書)。その後の経緯は史料を欠いて不明だが、延文四年(一三五九)三月二八日倉垣庄は下鴨神社領として安堵された(「右少弁平信兼奉書」賀茂御祖皇大神宮諸国神戸記。以下神戸記と略す)


倉垣庄
くらがきのしよう

現在の倉垣付近にあった庄園。「康平記」康平五年(一〇六二)正月一三日条に「屯食八具、(中略)倉垣御荘二具」とみえ、このときすでに摂関家領として成立しており、摂関が奈良春日社に参詣するための負担の一部として屯食(強飯)二具を割当てられている。その後、藤原忠通の娘で崇徳上皇中宮となった皇嘉門院に伝領されたが、治承四年(一一八〇)彼女がそれを甥の九条良通に譲ったので九条家領となった(同年五月一一日「皇嘉門院惣処分状」九条家文書)。しかし、九条家領になっても春日詣の負担はかわらず、正治二年(一二〇〇)正月一〇日の摂政近衛基通の春日詣にさいして屯食二具が課せられている(「猪隈関白記」同日条)

承久の乱の三年後、元仁元年(一二二四)僧理真(俗名野間弥太郎)が倉垣村遠雁とおかりの田地一反を野間右衛門四郎なる者に譲っている(同年二月三日「僧理真田地譲状」勝尾寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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