朝日日本歴史人物事典 「光永平蔵」の解説
光永平蔵
生年:生年不詳
江戸後期の治水功労者。熊本藩木倉手永惣庄屋光永円右衛門惟影の養子。名は惟詳,通称はじめ次郎助。天保2(1831)年養父の跡を継いで惣庄屋となるが,10年病を得て辞任した。14年,再び芦北郡湯浦手永・久木野手永惣庄屋,益城郡木倉手永に所替となり,文久2(1862)年病死するまで惣庄屋を務めた。在職した30年間に多くの水利橋梁工事を手がけた。御船上町の石造2連の眼鏡橋,七滝村八勢の石造眼鏡橋,嘉永新井手がその代表的成果である。なかでも嘉永新井手は7年を費やして北中島亀甲川を水源とし,20カ所余,900mの隧道を穿って延長28kmの水路を貫通させ,数百町歩の新田を開発し米穀の産出を可能にした。<参考文献>武藤厳男『肥後先哲偉蹟』
(松本寿三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報