児玉 隆也
コダマ タカヤ
昭和期のジャーナリスト
- 生年
- 昭和12(1937)年5月7日
- 没年
- 昭和50(1975)年5月22日
- 出生地
- 兵庫県芦屋市
- 主な受賞名〔年〕
- 文芸春秋読者賞(第36回)〔昭和49年〕「特集―田中角栄研究」,日本エッセイストクラブ賞(第23回)〔昭和50年〕「一銭五厘たちの横丁」
- 経歴
- 8歳で父を亡くし、少年時代には新聞配達や郵便配達を経験。昭和33年雑誌「世界」の「8月15日」論文募集に入選。35年光文社入社試験で「夜間部出身は採用せぬ」と社長の神吉晴夫に言われて反論し入社した。「女性自身」の編集部、副編集長となり、45年光文社争議を機に退社、47年よりフリー。49年の文芸春秋11月号に「淋しき越山会の女王」を発表、脚光を浴びた。50年「一銭五厘たちの横丁」で日本エッセイストクラブ賞。「君は天皇をみたか」「ガン病棟の九十九日」などの作品を残し、がんに倒れた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
児玉隆也 こだま-たかや
1937-1975 昭和時代後期のジャーナリスト。
昭和12年5月7日生まれ。35年光文社にはいり,「女性自身」の編集にたずさわるが,45年退社。49年「文芸春秋」に「淋しき越山会の女王」を発表,立花隆(たかし)の「田中角栄研究」とともに,田中首相退陣の引き金となった。昭和50年5月22日死去。38歳。兵庫県出身。早大卒。著作に「この三十年の日本人」など。
【格言など】再発と転移から救ってください(がんにおかされ,亀の甲羅(こうら)にかいた願い)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
児玉 隆也 (こだま たかや)
生年月日:1937年5月7日
昭和時代のジャーナリスト。「女性自身」副編集長
1975年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の児玉隆也の言及
【総合雑誌】より
… 戦後の《文芸春秋》は,推理作家松本清張が占領期と昭和戦前の史実にいどんだ《日本の黒い霧》《昭和史発掘》を長期連載するなどドキュメンタリーな方法によって読者を獲得し,国民雑誌という評を得るにいたった。とくに児玉隆也,立花隆を起用して田中角栄首相の政治資金工作をあばいた〈金脈追及〉記事は,在日外国人記者たちの首相会見要求をみちびいてロッキード事件に先立つ田中内閣退陣を実現させた。上記の各誌はいずれも月刊誌であるが,このほかに週刊で総合雑誌の性格が濃いものに《朝日ジャーナル》(1959),《エコノミスト》(1923)がある。…
【文芸春秋】より
…現在,不特定多数を読者対象とする月刊誌としては最大の部数を保持している。74年11月号に掲載された立花隆〈田中角栄研究〉,児玉隆也〈淋しき越山会の女王〉は,田中角栄首相退陣の引金となった。【京谷 秀夫】。…
※「児玉隆也」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」