入江庄
いりえのしよう
巴川下流域にあった庄園。現清水市の入江・渋川・吉川・長崎・楠の各地区から有度山北東麓の草薙・矢部地区など、巴川以南の旧有度郡の地に相当するが、室町期には東域が庵原郡の興津まで含まれたと推測される。なお戦国期江尻城内に置かれた鐘銘には「庵原郡入江荘」とある(「仏眼禅師語録」臨済寺蔵)。
正応六年(一二九三)七月二九日「入江庄内長崎郷」三分の一と楠木村が鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている(「関東下知状写」鶴岡八幡宮文書)。当庄は藤原南家流の駿河国守時信の子維清が一一世紀半ば頃土着し、有力在庁官人として当地の開発に当たり入江氏の祖となって入江右馬允を名乗り、立券・寄進して成立、入江氏は庄官職を相伝したと推測される。その子孫が船越・渋川・吉河(吉香)・矢部を名字の地として開発に当たり、さらに一族は東方の興津、蒲原(現蒲原町)、西方の岡部(現岡部町)へ勢力を扶植していった。流布本「太平記」(巻一三「足利殿東国下向事」)・金勝院本「太平記」によると、当庄は鎌倉末期の地頭入江左衛門尉春倫に至るまで譜代相伝の所領であった。北条高時に押領され得宗領となったが、建武の新政になって法勝寺の信尭の仲介により綸旨を賜って旧領を拝領した。建武二年(一三三五)中先代の乱で時行に追われて東海道を敗走する足利直義が、成良親王を擁して当地に入り、春倫に支援を要請した時、春倫は時行に味方して幕府を再興せんとした一族中の者たちを制し、一族あげて直義を支援したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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