江尻宿
えじりしゆく
巴川の下流に位置した近世東海道の宿で、江戸から数えて一八番目。宿場の町並は巴川左岸の江尻町(江尻宿とも)を中心に南西方は対岸の入江町、北東方は辻村地内まで延びていた。当地は中世以来宿駅として機能してきたと思われるが、江尻宿として正式に近世東海道の宿となったのは、他の多くの東海道の宿と同様慶長六年(一六〇一)である(「伝馬定」寺尾家文書)。駿府宿宛に下された同年正月の徳川家奉行衆連署伝馬掟書写(旧望月家文書)には「下ハ江尻迄」とみえる。なお江戸時代の宿場の北方、北街道が辻村に入る辺りに上本宿・下本宿(元宿とも)の地名が残り、同所付近が中世以来の宿場であったと伝え、巴川の河口部に移ったのは慶長一二年のことという。
宿村大概帳によると江戸からは四一里三五町余、東の興津宿へは一里二町、西の府中宿(駿府宿)へは二里二五町。宿内町並は東の辻町(辻村のうちの町場)から西の入江町まで一三町。地子免許一万坪。人馬継立場は一ヵ所で、問屋一・年寄二・帳付六・馬指六・人足指二がいた。宿立人馬は一〇〇人・一〇〇疋、うち定囲五人・五疋、臨時御用囲二五人・一五疋。本陣二・脇本陣三、旅籠屋五〇、うち大六・中一六・小二八。往還は東見付のある辻町(辻村のうち町方分)が江尻町に入り、本郷町・鍛冶町・鋳物師町・伝馬町と駿河湾沿いに南下し、ここで巴川に突き当り、西折して同川に並行して下町・中町・魚町と通り、巴川に架かる稚児橋を渡って入江町(地方を除く町方分)に至った。下町・中町・魚町は宿の中心部で江尻三町と称し、魚町から北へ紺屋町、南に入小路が、下町の南端から南へ七間町が続いていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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