静岡市清水区(しみずく)南部の一地区。興津川下流部にある。古代の宿駅として『延喜式(えんぎしき)』に息津(おきつ)として所出。東は興津川、薩埵(さった)峠、西は清見寺(せいけんじ)山が駿河(するが)湾に迫る難所。清見寺山下の清見関(きよみがせき)は坂東(ばんどう)への備えの役割を果たした。鎌倉時代以降、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置。1601年(慶長6)東海道の宿となり、以後宿場町として発展。興津からは身延(みのぶ)、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝であった。江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地。明治以降、西園寺公望(さいおんじきんもち)の坐漁荘(ざぎょそう)はじめ、井上馨(かおる)ら明治の元勲の別荘が建ち避寒地として著名。徳川家康ゆかりの清見寺(せいけんじ)の庭園は国の名勝。また、清水港の興津埠頭(ふとう)にはコンテナターミナルが建設されている。国道1号が通じ、JR東海道本線興津駅がある。
[川崎文昭]
千葉県外房(そとぼう)海岸に臨む勝浦市(かつうらし)の一地区。旧興津町。日蓮(にちれん)ゆかりの妙覚寺(みょうかくじ)がある興津地区は、江戸前期には東北地方と江戸を結ぶ外海江戸廻(まわ)り航路の中継港として発達した。岩石海岸が続いていて、砂質凝灰岩の海食洞である守谷洞窟(もりやどうくつ)がある。
[山村順次]
駿河国(静岡県)の宿場町。古代駅家として《延喜式》に息津(おきつ)と見える。東は興津川・薩埵(さつた)峠,西は清見寺山が駿河湾に迫る東海道の難所,清見寺山下には清見関が設けられ,坂東への備えとした。鎌倉時代以降は入江氏支流の興津氏が宿の長者として支配,室町時代以降今川氏の被官となった興津氏はこの地に居館を構え,戦国期には薩埵山に警護関を置いた。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定され,以後宿場町として発展。興津宿は本宿と中宿町から成り,中宿町から興津川沿いに北へ甲州往還(身延街道)が分岐,駿甲境の宍原宿をへて身延より甲府へ通じ,交通の要衝であった。〈東海道宿村大概帳〉によれば,宿並10町余,人別1668,家数316,本陣2,脇本陣2,旅籠屋34である。江戸中期以降は興津川流域の村々で盛んに生産される和紙や薪炭の集散地となった。アマダイを塩干しした興津鯛,清見寺寺下の膏薬は興津の名産。1961年清水市に合体。2003年合併により静岡市となる。
執筆者:川崎 文昭
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…千葉県南東部,太平洋に臨む市。1955年勝浦町,興津町,総野村,上野村が合体して勝浦町となり,58年市制。人口2万4328(1995)。…
※「興津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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