成良親王(読み)ナリナガシンノウ

デジタル大辞泉 「成良親王」の意味・読み・例文・類語

なりなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【成良親王】

[1326~1344]後醍醐天皇皇子。名は「なりよし」とも。建武の中興後、鎌倉下向上野こうずけ太守となり、続いて征夷大将軍となった。北朝光明天皇即位にあたり皇太子に立てられたが、まもなく廃された。

なりよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【成良親王】

なりながしんのう(成良親王)

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精選版 日本国語大辞典 「成良親王」の意味・読み・例文・類語

なりよし‐しんのう‥シンワウ【成良親王】

  1. 醍醐天皇皇子。母は阿野廉子。北条氏滅亡後、征夷大将軍となる。建武三年(一三三六)一一月、北朝の光明天皇即位に当たり東宮に立てられたが、のち足利尊氏に毒殺されたといわれる。一説に「なりながしんのう」とも。嘉暦元~興国五年(一三二六‐四四

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朝日日本歴史人物事典 「成良親王」の解説

成良親王

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:嘉暦1(1326)
南北朝期の皇族。「なりなが」とも呼ばれる。後醍醐天皇の皇子,母は阿野公廉の娘廉子(新待賢門院)。正慶2/元弘3(1333)年親王宣下を受け,足利直義に奉ぜられて鎌倉に下向。建武1(1334)年四品に叙せられ,上野(群馬県)太守に任じられる。翌年,中先代の乱により帰京,征夷大将軍に任じられた。このことから将軍宮とも称される。建武3/延元1年11月,後醍醐天皇が神器を持明院統光明天皇に授与,足利尊氏の計らいで,成良親王は皇太子となるが,同年12月,後醍醐天皇が吉野へ逃れたため,廃された。親王の没年は,『太平記』によれば建武4/延元2年3月,越前(福井県)金崎城落城で捕らえられた恒良親王と共に幽閉され,次いで毒殺されたとみえる。しかし,同時代の官人の中原師守の日記『師守記』には,康永3/興国5(1344)年1月6日,近衛基嗣邸に預けられていた「後醍醐院皇子先坊」の死去の記事があり,この「先坊」が成良親王をさすかとも考えられている。

(相馬万里子)

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改訂新版 世界大百科事典 「成良親王」の意味・わかりやすい解説

成良親王 (なりよししんのう)
生没年:1326-44(嘉暦1-興国5・康永3)

後醍醐天皇の皇子。〈なりなが〉ともよむ。母は阿野廉子。建武新政下,鎌倉将軍府の主帥として1333年(元弘3)12月鎌倉へ下向。35年(建武2)7月北条時行が鎌倉を陥れると難を避けて帰洛し,8月征夷大将軍に補任。36年(延元1・建武3)8月に南北朝並立の事態に入ったが和議が成り,11月には光明天皇の皇太子となった。しかし翌月父帝の吉野潜幸とともに廃される。近衛基嗣第にて没。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「成良親王」の意味・わかりやすい解説

成良親王
なりながしんのう

[生]嘉暦1(1326).京都
[没]興国5=康永3(1344).1.6. 京都
後醍醐天皇の皇子。「なりよし」とも読む。母は贈左大臣藤原公廉の娘,皇太后廉子。元弘3=正慶2 (1333) 年親王宣下。次いで足利直義に奉じられて鎌倉に下向,建武1 (1334) 年四品に叙せられ,上野太守,同2年征夷大将軍となった。延元1=建武3 (1336) 年光明天皇の皇太子に立てられたが,後醍醐天皇の吉野潜幸により廃された。興国5=康永3 (1344) 年近衛基嗣第で没したとされているが,『太平記』には異説がある。 (→南北朝時代 )

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「成良親王」の意味・わかりやすい解説

成良親王
なりながしんのう
(1326―1344)

「なりよし」ともいう。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は新待賢門院廉子(たいけんもんいんれんし)(阿野(あの)廉子)。1333年(元弘3・正慶2)親王宣下。足利直義(あしかがただよし)に奉ぜられ鎌倉に下り、翌年上野太守(こうずけのたいしゅ)に任ぜられた。35年(建武2)7月北条時行(ときゆき)の鎌倉攻め(中先代の乱)で、直義とともに一時西走し、ついで帰洛(きらく)した。翌8月征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。まもなく足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇から離反し、36年(延元1・建武3)11月天皇が尊氏の軍門に下ると、尊氏により北朝光明(こうみょう)天皇の皇太子にたてられた。しかし12月後醍醐天皇の吉野潜幸により廃された。

[佐々木久彦]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「成良親王」の解説

成良親王
なりよししんのう

1326~44.1.6?

「なりなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院廉子。1333年(元弘3)足利直義(ただよし)に奉じられ鎌倉へ下向。34年(建武元)四品(しほん)・上野太守に叙任。35年中先代(なかせんだい)の乱で鎌倉を脱出し帰京後,征夷大将軍に任じられた。36年(建武3・延元元)足利尊氏により光明天皇の皇太子にたてられたが,後醍醐天皇が吉野へ移り南北朝分裂となったため廃された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「成良親王」の解説

成良親王 なりよししんのう

1326-? 南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
嘉暦(かりゃく)元年生まれ。母は新待賢門院。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年親王となる。建武(けんむ)3=延元元年光明天皇の皇太子となるがまもなく廃された。12歳で毒殺されたとも19歳で死亡したともいわれる。「なりなが」ともよむ。

成良親王 なりながしんのう

なりよししんのう

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旺文社日本史事典 三訂版 「成良親王」の解説

成良親王
なりよししんのう

1326〜44
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。建武の新政のとき,足利直義 (ただよし) に奉ぜられて鎌倉へ下る。1335年中先代の乱で,直義とともに敗れて西走し帰京。光明天皇の皇太子となったが,後醍醐天皇が吉野に南朝を立てたので廃された。

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世界大百科事典(旧版)内の成良親王の言及

【成良親王】より

…後醍醐天皇の皇子。〈なりなが〉ともよむ。母は阿野廉子。建武新政下,鎌倉将軍府の主帥として1333年(元弘3)12月鎌倉へ下向。35年(建武2)7月北条時行が鎌倉を陥れると難を避けて帰洛し,8月征夷大将軍に補任。36年(延元1∥建武3)8月に南北朝並立の事態に入ったが和議が成り,11月には光明天皇の皇太子となった。しかし翌月父帝の吉野潜幸とともに廃される。近衛基嗣第にて没。【森 茂暁】…

※「成良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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