(相馬万里子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
後醍醐天皇の皇子。〈なりなが〉ともよむ。母は阿野廉子。建武新政下,鎌倉将軍府の主帥として1333年(元弘3)12月鎌倉へ下向。35年(建武2)7月北条時行が鎌倉を陥れると難を避けて帰洛し,8月征夷大将軍に補任。36年(延元1・建武3)8月に南北朝並立の事態に入ったが和議が成り,11月には光明天皇の皇太子となった。しかし翌月父帝の吉野潜幸とともに廃される。近衛基嗣第にて没。
執筆者:森 茂暁
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
「なりよし」ともいう。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は新待賢門院廉子(たいけんもんいんれんし)(阿野(あの)廉子)。1333年(元弘3・正慶2)親王宣下。足利直義(あしかがただよし)に奉ぜられ鎌倉に下り、翌年上野太守(こうずけのたいしゅ)に任ぜられた。35年(建武2)7月北条時行(ときゆき)の鎌倉攻め(中先代の乱)で、直義とともに一時西走し、ついで帰洛(きらく)した。翌8月征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。まもなく足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇から離反し、36年(延元1・建武3)11月天皇が尊氏の軍門に下ると、尊氏により北朝光明(こうみょう)天皇の皇太子にたてられた。しかし12月後醍醐天皇の吉野潜幸により廃された。
[佐々木久彦]
1326~44.1.6?
「なりなが」とも。後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院廉子。1333年(元弘3)足利直義(ただよし)に奉じられ鎌倉へ下向。34年(建武元)四品(しほん)・上野太守に叙任。35年中先代(なかせんだい)の乱で鎌倉を脱出し帰京後,征夷大将軍に任じられた。36年(建武3・延元元)足利尊氏により光明天皇の皇太子にたてられたが,後醍醐天皇が吉野へ移り南北朝分裂となったため廃された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…後醍醐天皇の皇子。〈なりなが〉ともよむ。母は阿野廉子。建武新政下,鎌倉将軍府の主帥として1333年(元弘3)12月鎌倉へ下向。35年(建武2)7月北条時行が鎌倉を陥れると難を避けて帰洛し,8月征夷大将軍に補任。36年(延元1∥建武3)8月に南北朝並立の事態に入ったが和議が成り,11月には光明天皇の皇太子となった。しかし翌月父帝の吉野潜幸とともに廃される。近衛基嗣第にて没。【森 茂暁】…
※「成良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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