日本大百科全書(ニッポニカ) 「今川範国」の意味・わかりやすい解説
今川範国
いまがわのりくに
(1297/1304―1384)
南北朝時代の武将。戦国大名今川氏出現のための基礎を築いた。九州探題として著名な今川了俊(りょうしゅん)の父。法名心省、定光寺殿と号した。幼少より冷泉(れいぜい)、京極(きょうごく)派の和歌に親しみ、また武家故実にも通じていた。遠江(とおとうみ)(静岡県)守護、駿河(するが)(静岡県)守護などに任ぜられ、とくに駿河守護は範国以後、他氏に移らず国務も兼帯、両国守護として一族、在地武士たちを軍事的に組織統轄する一方、1352年(正平7・文和1)2月、足利直義(あしかがただよし)の死去に伴う幕府政界変動のあと、幕府の中央政治機関で所領関係の訴訟を取り扱う引付頭人(ひきつけとうにん)に任ぜられた。範国の和歌習作をはじめとする学習態度は、聞書(ききがき)と称し、古反故(ふるほご)の裏を大草子にこしらえ、知らないことはだれにでも尋ね、その説々を書き付けたという逸話の示すとおり、謙虚でかつ知識探求欲に富むものであった。
[上田純一]
『川添昭二著『今川了俊』(1964・吉川弘文館)』